浄土真宗 (Jodo Shinshu)

浄土真宗(じょうどしんしゅう、Shin-Buddhism, Pure Land Buddhism)は、日本の仏教の宗派のひとつで、鎌倉時代初期、法然の弟子・親鸞が、法然の教え(浄土宗)を継承発展させた教団である。

宗派名の成り立ちの歴史的経緯から、現在、同宗に属する宗派の多くが宗旨名としては真宗を名乗る。
過去には一向宗、門徒宗とも通称された。
教義
念仏(南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ、なもあみだぶつ(本願寺派))を称えること(称名念仏)を通して、阿弥陀如来(以降「如来」)の慈悲を信知せしめられ、悪人を含む全ての人が浄土へ往生し成仏するという絶対他力への信順を往生成仏の正因とする。

このことから、真宗の教えを漢字8字であらわすと、「信心正因 称名報恩」と言われる。
本願寺八世蓮如が、『御文』にて次のように述べている。

「そもそも、開山聖人の御一流には、それ、信心といふことをもってさきとせられたり。
その信心というはなにの用ぞというに、無善造悪のわれらがようなるあさましき凡夫が、たやすく弥陀の浄土へまいりなんずるための、出立なり。
この信心を獲得せずは、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。」

また、「称名報恩」については、「その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし御恩報尽の念仏とこころうべきなり」(同、5帖目10通)と、浄土真宗の称名念仏は、如来に救いとられたお礼の言葉であると述べている。

この根拠が、『無量寿経仏説無量寿経』に説かれる四十八願、ことに「王本願」とも呼ばれる第十八願(選択本願)である。

本尊は阿弥陀如来一仏である。
ただし、高田派及び一部門徒は善光寺式阿弥陀三尊形式である阿弥陀如来・観世音菩薩・勢至菩薩を本尊とする。

念仏への誤解

一般に、「今この時にも阿弥陀如来の本願力は私たちに回向されていて、救われている」(現生正定聚)については、誤った受け取り方をする者が多かったため、たびたび正している。
蓮如は『御文(御文章)』で、

「十劫正覚のはじめより、我等が往生を定めたまえる弥陀の御恩を忘れぬが信心ぞといえり。
これ大きなる誤なり。
そも弥陀如来の正覚を成りたまえる謂を知りたりというとも、我等が往生すべき他力の信心という謂を知らずば徒事なり。」

と、如来が仏となられたいわれを知るだけでは、それはただの知識にすぎず、如来より賜る他力の信心(真実の信心)のいわれを知らなければいけない、と述べている。
ここでも信心正因を確認し、明確に正しており、「ただ念仏を称えれば、誰でも極楽へゆける」とは述べていない。
如来より賜る信心により救われるのが浄土真宗である。
あくまでも念仏は、報恩の為に発せられるのであって、往生の条件ではない。

また親鸞は『教行信証』に、「涅槃の真因は唯信心を以てす」と述べ、『尊号真像銘文』には「真実信心を阿耨菩提(あのくぼだい・この上ないさとりの意)の因とすべしとなり」と述べている。

習俗

他の仏教宗派に対する真宗の最大の違いは、僧侶に肉食妻帯が許される、無戒であるという点にある(明治まで、妻帯の許される仏教宗派は真宗のみであった)。
そもそもは、一般の僧侶という概念(世間との縁を断って出家し修行する人々)や世間内で生活する仏教徒(在家)としての規範からはみ出さざるを得ない人々を救済するのが本願念仏であると、師法然から継承した親鸞が、それを実践し僧として初めて公式に妻帯し子を設けたことに由来する。
そのため、真宗には法脈(師弟関係)と血脈の2つの系譜が存在する。
与えられる名前も戒名ではなく法名と言う。

真宗は、ただ如来の働きにまかせて(すなわち真実の信心を獲得すれば)、全ての人は往生成仏することが出来るとする教えから、他の宗派と比べ多くの宗教儀式や習俗にとらわれず、報恩謝徳の念仏と聞法を大事にする。
仏教宗派の中では、唯一加持祈祷を行わないのも大きな特徴である。
また合理性を重んじ、作法や教えも簡潔であったことから、近世には庶民に広く受け入れられたが、他の宗派からはかえって反発を買い、「門徒物知らず」(門徒とは真宗の信者のこと)などと揶揄される事もしばしばであった。
また真宗は、本尊(「南無阿弥陀仏」の名号本尊、若しくは阿弥陀如来の絵像・木像)の各戸への安置を奨励した。
これを安置する仏壇の荘厳に関しての「決まり」が他の宗派に比して厳格である。
荘厳は本山を模していることから、真宗各派でも作りが異なり、仏具に関してもそれぞれに違いがある。
仏壇に、本尊を安置し荘厳されたものを、真宗では「御内仏」と呼ぶ。
真宗においては、先祖壇や祈祷壇として、用いない。

真宗の本山には、そのいずれにおいても基本的に、本尊阿弥陀如来を安置する本堂(阿弥陀堂)とは別に、宗祖親鸞の真影を安置する御影堂がある。
真宗の寺院建築には他にも内陣に比べて外陣が広いなど、他宗に見られない特徴がある。
また各派ともに、宗祖親鸞聖人の忌日に、「報恩講」と呼ばれる法会を厳修する。
その旨は、求道・弘教の恩徳と、それを通じて信知せしめられた阿弥陀如来の恩徳とに報謝し、その教えを聞信する法会である。
またこの法会を、年間最大の行事とする。
ただし、真宗各派でその日は異なる。
(詳しくは、報恩講宗派別の御正忌報恩講の日程を参照。)

主な経典

正依の経典は浄土三部経。
また経典では無いが、七高僧の著作についても重んじる。
中でも天親の『無量寿経優婆提舎願生偈』は、師である法然が「三経一論」と呼び、浄土三部経と並べて特に重んじた。
親鸞は、『仏説無量寿経』を『大無量寿経』『大経』と呼び特に重んじた。

浄土三部経

『仏説無量寿経』 曹魏康僧鎧(こうそうがい)訳

『仏説観無量寿経』 劉宋畺良耶舎(きょうりょうやしゃ)訳

『仏説阿弥陀経』 姚秦鳩摩羅什(くまらじゅう)訳

七高僧の論釈

龍樹造

『十住毘婆沙論』全十七巻の内、巻第五の「易行品第九」 姚秦鳩摩羅什訳

天親造(婆藪般豆菩薩造)

『無量寿経優婆提舎願生偈(浄土論・往生論)』 後魏菩提留支(ぼだいるし)訳

曇鸞撰

『無量寿経優婆提舎願生偈註(浄土論註・往生論註)』

『讃阿弥陀仏偈』

道綽撰

『安楽集』

善導撰

『観無量寿経疏(観経疏・観経四帖疏)』

『往生礼讃偈(往生礼讃)』

『転経行道願往生浄土法事讃(法事讃)』

『依観経等明般舟三昧行道往生讃(般舟讃)』

『観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門(観念法門)』

源信撰

『往生要集』

源空撰

『選択本願念仏集』

親鸞撰

『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』

『浄土文類聚鈔』

『愚禿鈔』

『入出二門偈頌(入出二門偈)』

『浄土三経往生文類(三経往生文類)』

『如来二種回向文』

『尊号真像銘文』

『一念多念文意』

『唯信鈔文意』

「三帖和讃」

『浄土和讃』

『高僧和讃』

『正像末和讃』

なお蓮如の『御文(御文章)』は、本願寺派・大谷派などでは正依の聖教に準じて重んじるが、高田派など宗派によっては用いない。
(蓮如は、本願寺の血脈である為、宗祖親鸞からの法脈を重んずる宗派では用いない。
また蓮如の本願寺と高田派は、争いが起き対立した歴史がある。)

名称について

開祖親鸞は、釈尊・七高僧へと継承される他力念仏の系譜をふまえ、法然(浄土宗開祖)を師と仰いでからの生涯に渡り、「真の宗教である浄土宗の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。
法然没後の弟子たちによる本願・念仏に対する解釈の違いから、のちに浄土宗西山派などからの批判を受ける事につながる。

なお、親鸞は生前に著した『高僧和讃』において、法然について「智慧光のちからより、本師源空(法然)あらはれて、浄土真宗ひらきつゝ、選択本願のべたまふ」と述べて、浄土真宗は法然が開いて自らが継承した浄土宗の教えと解した。
これに対して蓮如は、

「祖師聖人(親鸞)はすでに浄土真宗とこそおほせさだめられたり……当流のことは自余の浄土宗よりもすぐれたる一義あるによりて我聖人も別して真の字をおきて浄土真宗とさだめたまへり」

と解しており、時代とともに浄土真宗という宗名に関する考え方に変化が生じていることを示している。

親鸞は越後流罪後(承元の法難)に関東を拠点に布教を行ったため、関東に親鸞の教えを受けた門徒が形成されていく。
親鸞の没後に、浄土宗から独立した宗旨として形成される。
親鸞の教えを継ぐ者には自らの教義こそ浄土への往生の真の教えとの思いはあったが、浄土真宗と名乗ることは浄土宗の否定とも取られかねないため、当時はただ真宗と名乗った。
ちなみに浄土宗や時宗でも自らを「浄土真宗」「真宗」と称した例があり、また時宗旧一向派(開祖一向俊聖)を「一向宗」と称した例もある。

近世には浄土宗からの圧力により、江戸幕府から「浄土真宗」と名乗ることを禁じられ、「一向宗」と公称した(逆に本来「一向宗」を公称していた一向俊聖の法統は、本来は無関係である時宗へと強制的に統合される事になる)。
親鸞の法統が「浄土真宗」を名乗ることの是非について浄土真宗と浄土宗の間で争われたのが安永3年(1774年)から15年にわたって続けられた宗名論争である。

明治5年(1872年)太政官正院から各府県へ「一向宗名之儀、自今真宗ト改名可致旨」の布告が発せられ、ここに近代になってようやく「(浄土)真宗」と表記することが認められたのである。

歴史
親鸞時代

蓮如の登場まで

親鸞の死後、親鸞の曾孫にあたる覚如(1270年-1351年)は、三代伝持等を根拠として親鸞の祖廟継承の正当性を主張し、本願寺(別名大谷本願寺)を建てて本願寺3世と称した。
こうした動きに対し、親鸞の関東における門弟の系譜を継ぐ佛光寺7世の了源(1295年-1336年)など他の法脈は、佛光寺や専修寺などを根拠地として、次第に本願寺に対抗的な立場を取ることになった。

この頃の浄土真宗は、佛光寺や専修寺において活発な布教活動が行われ多くの信者を得たが、本願寺は8世蓮如の登場までは、天台宗の末寺として存続していたに過ぎなかった。
蓮如の登場~石山合戦
室町時代の後期に登場した本願寺8世の蓮如(1415年-1499年)は、当時の民衆の成長を背景に講と呼ばれる組織を築き、人々が平等に教えを聴き団結できる場を提供し、また親鸞の教えを安易な言葉で述べた『御文(御文章)』を著作し、一般に広く教化した。
この事により本願寺は急速に発展・拡大し、一向宗と呼ばれるようになった(逆にこの他の真宗各派は衰退することとなる)。

この講のよる信者の団結力は、蓮如の制止にも拘わらず施政者(大名など)に向かった。
中世末の複雑な支配権の並存する体制に不満を持つ村々に国人・土豪が真宗に改宗することで加わり、「一向一揆」と呼ばれる一郡や一国の一向宗徒が一つに団結した一揆が各地で起こるようになる。
そのため、この後に加賀の例で記述するような大名に対する反乱が各地で頻発し、徳川家康・上杉謙信など多数の大名が一向宗の禁教令を出した。
中でも、薩摩国の島津氏は明治時代まで禁教令を継続したため、南九州の真宗信者は講を組織し秘かに山中の洞窟で信仰を守った(かくれ念仏)。
やがて応仁の乱(1467年-1477年)が起こり、当時越前国にあった本願寺の根拠吉崎御坊の北、加賀国で東軍・西軍に分かれての内乱が生じると、専修寺派の門徒が西軍に与した富樫幸千代に味方したのに対し、本願寺派の門徒は越前の大名朝倉孝景 (7代当主)の仲介で、文明6年(1474年)、加賀を追い出された前守護で幸千代の兄である東軍の富樫政親に味方して幸千代を追い出した(つまり、加賀の一向一揆は、最初は真宗内の勢力争いでもあった)。
しかしその後、本願寺門徒と富樫政親は対立するようになり、長享2年(1488年)、政親が一向宗討伐軍を差し向けると、結局政親を自刃に追い込んで自治を行うまでになった(ただし富樫氏一族の富樫正高は一向一揆に同情的で、守護大名として象徴的に居座っている)。
その後、門徒の矛先は朝倉氏に奪われていた吉崎の道場奪回に向けられ、北陸全土から狩り出された門徒が何度も朝倉氏と決戦している。
一方、畿内では、吉崎より移った蓮如が文明14年(1482年)に建立した、京都山科本願寺が本拠地であったが、その勢威を恐れた細川晴元は日蓮宗徒と結び、天文 (元号)元年(1532年)8月に山科本願寺を焼き討ちした(真宗では「天文の錯乱」、日蓮宗では「天文法華の乱」)。
これにより本拠地を失った本願寺は、蓮如がその最晩年に建立し(明応5年、1496年)居住した大坂石山の坊舎の地に本拠地を移した(石山本願寺)。
これ以後、大坂の地は、城郭にも匹敵する本願寺の伽藍とその周辺に形成された寺内町を中心に大きく発展し、その脅威は時の権力者たちに恐れられた。
永禄11年(1568年)に織田信長が畿内を制圧し、征夷大将軍となった足利義昭と対立するようになると、本願寺11世の顕如(1543年-1592年)は足利義昭に味方し、元亀元年(1570年)9月12日、突如として三好氏を攻めていた信長の陣営を攻撃した(石山合戦)。
また、これに呼応して各地の門徒も蜂起し、伊勢国長島願証寺の一揆(長島一向一揆)は尾張の小木江城を攻め滅ぼしている。
この後、顕如と信長は幾度か和議を結んでいるが、顕如は義昭などの要請により幾度も和議を破棄したため、長島や越前など石山以外の大半の一向一揆は、ほとんどが信長によって根切(皆殺し)にされた。
石山では開戦以後、実に10年もの間戦い続けたが、天正8年(1580年)、信長が正親町天皇による仲介という形で提案した和議を承諾して本願寺側が武装解除し、顕如が石山を退去することで石山合戦は終結した。
(その後、石山本願寺の跡地を含め、豊臣秀吉が大坂城を築造している。)
このように一向一揆は、当時の日本社会における最大の勢力のひとつであり、戦国大名に伍する存在であったが、真宗の門徒全体がこの動きに同調していたわけではない。
越前国における本願寺門徒と専修寺派の門徒(高田門徒・真宗三門徒派)との交戦の例に見られるように、本願寺以外の真宗諸派の中にはこれと対立するものもあった。

京都に再興
豊臣秀吉の時代になると、天正19年(1591年)に、顕如は京都中央部(京都七条堀川)に土地を与えられ、本願寺を再興した。
1602年、石山退去時の見解の相違等をめぐる教団内部の対立状況が主因となり、これに徳川家康の宗教政策が作用して、顕如の長男である教如(1558年-1614年)が、家康から本願寺のすぐ東の土地(京都七条烏丸)を与えられ東本願寺を構えた。
これにより、当時最大の宗教勢力であった本願寺は、顕如の三男准如(1577年-1630年)を12世宗主とする西(現在の浄土真宗本願寺派、真宗興正派など)と、長男教如を12世宗主とする東(現在の真宗大谷派など)とに分裂することになった。
明治維新後の宗教再編時には、大教院に対し宗教団体として公的な登録を行う際、現在の浄土真宗本願寺派のみが浄土真宗として申請し、他は真宗として申請したことが、現在の名称に影響している。

また、長い歴史の中で土俗信仰などと結びついた、浄土真宗系の新宗教も存在している。

宗派

現在、浄土真宗宗派加盟の10派ほか諸派に分かれているが、宗全体としては、日本の仏教諸宗中、最も多くの寺院(約22,000ヶ寺)、信徒を擁する。

真宗十派(真宗教団連合)
真宗教団連合は、親鸞聖人生誕750年・立教開宗700年にあたる1923年(大正12年)、真宗各派の協調・連携を図る為に、真宗各派協和会として結成された。
加盟団体は以下の10派であり、「真宗十派」といわれる。

浄土真宗本願寺派
西本願寺(通称 西本願寺)(京都市下京区) 末寺数 10497
真宗大谷派
真宗本廟(通称 東本願寺)(京都市下京区) 末寺数 9804
真宗高田派
専修寺(三重県津市) 末寺数 643
真宗興正派
興正寺(京都市下京区) 末寺数 486
真宗佛光寺派
佛光寺(京都市下京区) 末寺数 390
真宗木辺派
錦織寺(滋賀県野洲市) 末寺数 250
真宗誠照寺派
誠照寺(福井県鯖江市) 末寺数 80
真宗出雲路派
毫摂寺(福井県越前市) 末寺数 67
真宗三門徒派
専照寺(福井県福井市) 末寺数 41
真宗山元派
證誠寺 (鯖江市)(福井県鯖江市) 末寺数 21

その他の宗派
真宗浄興寺派
浄興寺(新潟県上越市) 末寺数 12
原始真宗
願入寺(茨城県東茨城郡)
浄土真宗別格本山(単立)
西念寺 (笠間市)(茨城県笠間市) - 親鸞ゆかりの稲田草庵を由緒とする。

弘願真宗
聖玄寺(福井県福井市) 末寺数 8
淨土真信宗浄光寺派(浄土真宗浄光寺派)
浄光寺(福岡市東区) 末寺数 5
真宗北本願寺派
北本願寺(北海道小樽市) 末寺数 3
浄土真宗遣迎院派
遣迎院(京都市北区)
カヤカベ教

お東騒動で分立した宗派
浄土真宗東本願寺派(前・東京本願寺)
東本願寺 (東京都台東区)(東京都台東区) - 長男大谷光紹、末寺・崇敬寺院数 324
本願寺維持財団
東本願寺東山浄苑(京都市東山区) - 2男大谷暢順、現門主は長男大谷業成(光輪)。
東山上花山本願寺。

大谷本願寺(大谷本願寺)
大谷本願寺(京都市右京区) - 4男大谷暢道(光道)。
2007年2月、宗教法人設立。

浄土真宗系新宗教
浄土真宗親鸞会
浄土真宗一の会
仏眼宗
真宗長生派
浄土真宗同朋教団
仏教真宗
門徒宗一味派

信者団体
浄土真宗華光会

[English Translation]