飯縄権現 (Izuna-gongen)

飯縄権現(いづなごんげん、いいづなごんげん)とは、信濃国上水内郡(現 長野県)の飯縄山(飯綱山)に対する山岳信仰が発祥と考えられる神仏習合の神である。
多くの場合、白狐に乗った剣と索を持つ烏天狗形で表される。
五体、あるいは白狐には蛇が巻きつくことがある。
一般に戦勝の神として信仰され、足利義満、上杉謙信、武田信玄など中世の武将たちの間で盛んに信仰された。
特に、上杉謙信の兜の前立ちが飯縄権現像であるのは有名だ。

具体的には、火攻めの兵法として、狐の背に烏の脚を縄で括り付け、その翼に火を点けて敵城に放つ戦術の図解である。
また、戦勝に導いた狐と烏を供養するものである。
なお、勝敗は、管狐といって暗いところで小さく飼育し、火の点いた烏を背負ったまま、狭く暗い敵城内部に逃げ込ませられるかどうかにかかっている。

その一方で、飯縄権現が授ける「飯縄法」は「愛宕法」や「ダキニ天法」などとならび中世から近世にかけては「邪法」とされた。
天狗や狐などを使役する外法とされつつ俗信へと浸透していった。
「世に伊豆那の術とて、人の目を眩惑する邪法悪魔あり」(『茅窓漫録』)
「しきみの抹香を仏家及び世俗に焼く。」
「術者伊豆那の法を行ふに、此抹香をたけば彼の邪法行はれずと云ふ」(『大和本草』)の類である。
しかし、こうした俗信の域から離れ、現在でも信州の飯縄神社や高尾山の高尾山薬王院(東京都八王子市高尾町)をはじめ、特に関東以北の各地で熱心に信仰されている。
飯綱権現、飯縄明神とも。

起源

飯縄権現に対する信仰は各種縁起や祭文により微妙に描写のされ方が異なる。
年次の判明しているもので古いものには『戸隠山顕光寺流記并序』(とがくしやまけんこうじるき、ならびにじょ:室町頃)があり、そこには、以下のようにある。
「吾は是れ、日本第三の天狗なり。」
「願わくは此の山の傍らに侍し、(九頭竜)権現の慈風に当たりて三熱の苦を脱するを得ん。」
「須らく仁祠の玉台に列すべし。」
「当山の鎮守と為らん。」
『戸隠山顕光寺流記并序』はあくまで戸隠を中心においた縁起であり、飯縄明神は戸隠権現の慈風によって鎮守となる、との主客関係が示されている。

一方、江戸時代の『飯縄山略縁起』では、飯縄大明神とは「天神第五偶生の御神大戸之道尊を斎祭り奉り、御本地は大日如来」とされる。
地蔵菩薩、将軍地蔵等と変じ、嘉祥元(848)年三月、学問行者が飯縄山を訪れ飯縄明神の尊容を拝して後、天福元(1233)年、千日太夫の開祖、荻野城主伊藤豊前守忠縄が約四百年ぶりに飯縄明神を拝し、衆生済度の為の「十三の誓願」を掲げられたという。

この他、『飯縄講式』では妙善月光と金毘羅夜叉との間にできた十八の王子のうち、出家せず俗に留まった十王子の第三が飯縄智羅天狗で、これが飯縄山の飯縄明神であると語る。
これは先の『戸隠山顕光寺流記并序』と内容的に関連する。

飯縄山を中心とする修験は「飯縄修験」と呼ばれ、代々その長を務めるのは千日太夫と呼ばれる行者であった。
千日太夫は近世には仁科氏が務め、飯縄神領百石を支配していた。
飯縄山における飯縄信仰は、この千日太夫を中心に後世形作られていったものと思われる。

飯縄権現がいつ頃から信仰としての形を整えたのか現段階で詳らかにすることはできないが、現存最古銘の飯縄神像は永福寺の神像であり、応永十三(1406)年の銘がある。
また、岡山県立博物館寄託の飯縄権現図は絹本著色で室町期の作と推定されており、日光山輪王寺伝来の「伊須那曼荼羅図」には南北朝~室町期の貞禅の名が見える。
加えて、高尾山薬王院有喜寺における飯縄権現は、中興の祖俊源が永和年間(1375~79)に入山した折に感得されたといい、俊源が既に飯縄権現に関する情報を得ていたことを伺わせる。
先に見た縁起や講式等の記述等と併せて考えるならば、中世初期にはかなり体系的な飯縄信仰像が形成されていたと考えられよう。

展開
一口に飯縄信仰と言っても、憑霊信仰や天狗信仰、武将や修験者、忍者の間での信仰、狐信仰など非常に多岐にわたっており、複雑な様相を呈している。
実際どのようなものであったのかは今後の研究の堆積が俟たれるところであるが、室町頃には一面、魔法、外法といった捉えられ方が既になされていたようである。

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