皇学所・漢学所 ({{engl}})

皇学所(こうがくしょ)・漢学所(かんがくしょ)は、王政復古 (日本)直後に明治政府によって京都に設置された高等教育機関。
大学寮に替わる組織を目指したが挫折した。

概要
平安時代末期の安元の大火によって大学寮が事実上廃絶した。
以後、朝廷内に公式な教育機関は存在しなかった。
仁孝天皇は教育機関再建を目指して京都御所内に学習院を設置した(弘化4年(1847年))。

学習院は大政奉還以後の政治的混乱から一時閉鎖していたが、大政奉還から半年後の明治元年3月12日 (旧暦)(1868年)に再開された。
だが、学習院が旧来の大学寮同様の儒教に基づく教育方針を採っていたことに不満を抱いた国学者は、国学と神道を中心に据えた学習院の改革あるいは新制学校の創設を求めたのである。

これに先立って、平田鉄胤・玉松操・矢野玄道の3名の国学者に新制学校の調査を命じられた。
3月28日 (旧暦)に報告が出された。
報告では、大学寮・学習院に替わって学舎制を導入して本教学(国学・神道)・経世学(政治・経済)・辞章学(文学・書画)・方伎学(医学・芸術)・外蕃学(洋学・科学)の5科編成の構成とした。
儒教を中心とする明経道に代わり、国学を中心とする本教学を中心とする制度にしようとしたのである。

だが、この構想に反対する保守的な公家勢力を中心に4月15日 (旧暦)に学習院を大学寮代と改称して大学寮再建方針を打ち出したのである。
これに平田らは強く反発した。
これを憂慮した長谷川昭道は岩倉具視に意見書を送って両者間の妥協を促す意見書を出した。
岩倉はこれに同意して9月13日 (旧暦)に平田案に基づく国学中心の皇学所と大学寮代を改組した漢学中心の漢学所の2校体制に移行したのである。

ところが、直後に東京奠都が決定され、東京に移った政府は旧江戸幕府の昌平学校などを基礎として洋学などを織り交ぜた大学設置構想に修正を行った。
この結果、明治2年9月2日 (旧暦)に皇学所・漢学所の廃止命令が出され、8日後には皇学所・漢学所ともに廃止されたのである。

だが、この決定に皇学所・漢学所ともに強く反発した。
これに押された留守官は12月に独断で東京に置かれた東京大学沿革を補完するとして皇学所と漢学所を合併した大学校代を設置した。
だが、翌明治3年8月(1870年)に政府の命令で廃止された。

以後、大学設置構想は東京にて進展し、京都に京都帝国大学が設置されるのは明治30年(1897年)のことであった。

所在地
皇学所は丸太町通北の九条家邸内(現在の京都御苑内・九条池(厳島神社)の少し北)、漢学所は鴨川 (淀川水系)西岸の梨本宮邸内(現在の京都府立医科大学体育館付近)に所在していた。

[English Translation]