水城 ({{engl}})

水城(みずき)は、7世紀中頃に構築された国防施設。
現在の福岡県大野城市から太宰府市にかけてあった。

1921年3月3日、水城跡(みずき あと)ととして史跡に指定。
史跡指定面積15万0805.80平方メートル。

歴史

『日本書紀』には次のことがらが記されているので、水城構築の背景には安全保障上の並ならぬ懸念があったことが分かる。

663年、日本は百済に味方して朝鮮半島で唐・新羅連合軍と戦ったが大敗した(白村江の戦い)。

当時中大兄皇子は、称制を執っていた。
彼は、唐・新羅がさらには博多湾から大宰府に攻め込むことを想定し、万一の場合に備えて翌664年に水城を築かせた。

翌665年には北九州から瀬戸内海沿岸にかけて大野城 (筑前国)、基肄城、長門城などの古代山城(朝鮮式山城)を築かせた。

667年には都を内陸部の近江大津宮に遷都。

その翌年の正月に中大兄皇子はやっと即位した(天智天皇)。

後年、1274年の文永の役では、襲来する元 (王朝)軍に対する防衛線として改修が施された。
しかし、ここが実際に戦場となることはなかった。

構造と用途

水城は、博多湾方面からの攻撃から大宰府を守るための防御線となる直線状の堀と土塁である。
土塁は、高さ10メートル以上、幅80メートル、長さ1.2キロメートルあった。
その博多湾側にあった堀は、幅60メートル、深さ4メートルで水を貯えていた。
土塁には2箇所に開口部があり、そこに門があったことが発掘によって確認されている。
土塁の内部には、御笠川から堀に水を流すための樋 (土木)が通っている。

南西の尾根を越えた場所には、現在は小水城(こみずき)と呼ばれる長さ80メートルの土塁がある。
これは、主要部の水城と合わせて大宰府を防御するための施設だと考えられている。

用途の異説

水城の用途についてはこれが単なる城壁ではなく、いざという時のものだとする説がある。
それは、御笠川をせき止め、外側の空堀に敵兵が入ってきた所へ水を一気に放流してこれを押し流すためだという説である。
ただし、水をせき止めるには不都合な門と木樋の存在、そして小水城の存在意義を考えると、この説は説得力に欠けるという見方もある。

現在に残る名称
九州旅客鉄道の鹿児島本線には「水城駅」という駅がある。

太宰府市には「水城」という地名がある。

大野城市には「小水城」という地名がある。

春日市平田台に「水城寺(すいじょうじ)」という法華宗陣門流の寺がある。

[English Translation]