飛鳥京跡 ({{engl}})

飛鳥京跡(あすかきょうあと)は奈良県高市郡明日香村岡にある飛鳥時代の遺跡。

概要

7世紀の宮殿の遺構だとされる。
日本書紀などに記述される飛鳥におかれた天皇(大王 (ヤマト王権))の宮の跡地であると考えられている。

もともとこの区域には宮らしき遺跡があることは言われている。
伝承により板蓋宮の跡だとされてきた。
初期の発掘調査で見つかった遺構についても国の指定史跡として伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきみやあと)として登録されている。
この名称で参照されることも多い。

発掘調査

昭和34年から発掘調査が始まった。
発掘調査が進んでいる区域では、時期の異なる遺構が重なって存在することがわかっている。
おおまかにはⅠ期、Ⅱ期、Ⅲ期遺構と3つに分類される。
各期の時代順序と、日本書紀などの文献史料の記述を照らし合わせた。
それぞれ、 Ⅰ期が岡本宮(630~636年)、 Ⅱ期が板蓋宮(643~645年、655年)、 Ⅲ期が岡本宮(656~660年)、飛鳥浄御原宮(672~694年)、の遺構であると考えられている。
Ⅲ期の後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮については出土した遺物の年代考察からかなり有力視されている。

最上段の層の遺構は内郭と外郭からなっている。

内郭は東西158メートル、南北197メートルである。
南北の二区画に分かれている。
北区画の方が広く、一辺約151メートルの正方形である。
井戸、高床建物、廊状建物の建物が多く、川原石が敷かれている。
南区画の方は20×11.2メートルの大規模な建物跡が確認されている。
この建物の中心線と内郭の中心線とが一致している。
周りに小砂利が敷かれている。
少し離れた所に南門が建設されている。

外郭でも掘立柱建物・塀・石組溝等が検出されている。
これらの内郭・外郭ともに太い掘立柱を立てた塀で囲まれている。
この他に、「エビノコ郭」(小字「エビノコ」にあることからこの名にしている)と呼ばれる一画があり、29.2×15.3メートルで四面ひさし付きの大型の掘立建物(エビノコ大殿と名付けられている)が発見されている。
その周辺を南北100メートル以上、東西約100メートルの掘立柱の塀で囲まれている。

外郭の外側から「辛巳年」(かのとみ)「大津皇子」「大来」等と書かれた墨書木簡が発見されている。
「辛巳年」は天武10年(681)、「大来」は大友皇子の姉の大来(伯)皇女の名と推定できる。
このこと等から、この最上段の層の遺構を宮殿建築と想定すると天武天皇の飛鳥浄御原宮と見なす説が有力である。

遺構の全体の範囲はまだわかっておらず、範囲特定のための発掘調査も行なわれている。

「飛鳥京跡」といえば上記の宮殿遺構を指すことが一般的ではある。
しかし、宮殿遺構の600メートル北の遺跡についても「飛鳥京跡」と指し示される。
また、宮殿遺構の北西の庭園跡(飛鳥京跡苑池遺構)についても「飛鳥京跡で見つかった苑池遺構」と紹介されることもある。
「飛鳥京跡」が指し示す対象範囲は人と場合により必ずしも一定ではないようである。

飛鳥浄御原宮

発掘調査で構造がもっともよく判明しているのは、飛鳥浄御原宮である。
そこでは天皇の居住空間に相当する区画は東西152~158メートル、南北197メートルである。
その南東の儀礼空間は東西94メートル、南北55メートルである。
これらの周囲を役所や庭園などの関連施設が取り囲んでいる。
さらに役所の一部は周辺地域へも広がっている。

飛鳥宮

板蓋宮は皇極・斉明天皇の2代の天皇、飛鳥浄御原宮は天武・持統天皇の2代の天皇がそれぞれ使用した。
こうした状況は、当時の宮は、天皇一代限りの行宮という考え方ではなく、何代もの天皇の宮として使用されるものとの考え方に変わってきていることが分かる。
つまり、飛鳥宮は、移りゆく宮から固定した都へと変化する転換点であった。

[English Translation]