仁徳天皇 (Emperor Nintoku)

仁徳天皇(にんとくてんのう、神功皇后摂政57年(257年) - 仁徳天皇87年1月16日 (旧暦)(399年2月7日))は、日本の第16代天皇(在位:仁徳天皇元年1月3日 (旧暦)(313年2月14日) - 同87年1月16日(399年2月7日))。
実在の人物かどうかについては諸説ある。

古事記の干支崩年に従えば、応神天皇の崩御が西暦393年、仁徳天皇の崩御が西暦427年となり、その間が在位期間となる。
名は大雀命(おほさざきのみこと)(『古事記』)、大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)・聖帝(『日本書紀』)・難波天皇(『万葉集』)。

概説
応神天皇の崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と互いに皇位を譲り合ったが、皇子の死(『日本書紀』は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと伝える)により即位したという。
この間の3年は空位である。

人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった、と言う記紀の逸話に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。

ただ一方で、記紀には好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い一面も描かれていることは興味深い。
また、事績の一部が父の応神天皇と重複・類似することから、元来は1人の天皇の事績を2人に分けたという説がある。
また『播磨国風土記』においては、大雀天皇と難波高津宮天皇として書き分けられており、二人の天皇の事跡を一人に合成したとも考えられる。

日本書紀の仁徳の条の冒頭では、五百城入彦皇子(成務天皇の弟)の孫となっているが、この記載は古事記応神の条の冒頭にある記事と矛盾する。
すなわち、大雀の母中日売の父が、五百木入日子の子品它真若となっていることである(この場合、大雀は五百木入日子の曾孫となる)。
この矛盾も、応神‐仁徳の系譜が実際には造作されていることをうかがわせる。

なお、『宋書』倭国伝に記される「倭の五王」中の讃(さん)または珍(ちん)に比定する説があるが、確定していない。

応神天皇の第4皇子。
母は品陀真若王の女・仲姫命(なかつひめのみこと)。

皇居

都は難波宮高津宮(なにわのたかつのみや、現在の大阪府大阪市中央区 (大阪市)か)。

業績

日本書紀には、次の事績が記されている。

河内平野における水害を防ぎ、また開発を行うため、難波の堀江の開削と茨田堤(大阪府寝屋川市付近)の築造を行った。
これが日本最初の大規模土木事業だったとされる。

山背の栗隈県(くるくまのあがた、京都府城陽市西北~久世郡久御山町)に潅漑用水を引かせた。

茨田屯倉(まむたのみやけ)を設立した。

和珥池(わにのいけ、奈良市?)、横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)を築造した。

潅漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)を掘削し、広大な田地を開拓した。

紀角宿禰を百済へ遣わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録した。

原文(遣紀角宿禰於百濟、始分國郡疆場、具録郷土所出)

また、古事記には、次のとおり記されている。

「この天皇の御世に、大后(おほきさき)石之日売命の御名代(みなしろ)として、葛城部を定め、また太子(ひつぎのみこ)伊邪本和氣命の御名代として、壬生部を定め、また水歯別命の御名代として、蝮部(たぢひべ)を定め、また大日下王の御名代として、大日下部を定め、若日下部の御名代として、若日下部を定めたまひき。

また、秦人を役(えだ)ちて茨田堤また茨田三宅を作り、また丸邇池(わこのいけ)、依網(よさみ)池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、また小椅江(をばしのえ)を掘り、また住吉津を定めたまひき。」

没年

「この天皇の御年、八十三歳(やそじまりみとせ)。
分注-丁卯の年の八月十五日に崩(かむあが)りましき」(『古事記』)。

「八十七年の春正月の戊子の朔(ついたち)癸卯に、天皇、崩(かむあが)りましぬ」(『日本書紀』)。

陵墓
百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)に葬られた。
名前の由来は、陵墓造営中に野から鹿が走り込んできて絶命。
その鹿の耳の中からモズが現れたことから地名を「百舌鳥耳原」と名づけられる(なお、モズは大阪府の鳥である)。
また、この古墳の北と南にも大古墳があり(北陵は反正天皇陵、南陵は履中天皇陵)、「中陵」と名づけられている。

『延喜式』諸陵寮に「百舌鳥耳原中陵。在和泉国大鳥郡。兆域東西八町。南北八町。陵戸五烟。」とあり、同陵は大阪府堺市堺区大仙町の大仙陵古墳(前方後円墳・全長486m、大仙古墳・大山古墳とも)に比定される。
『古事記』にも「御陵は毛受(もず)の耳原にあり」、『日本書紀』には寿陵であったと記され、「(八十七年)冬十月の癸未の朔己丑に、百舌鳥野稜(もずののみささぎ)に葬(はぶ)りまつる」とあるが、学術的には仁徳天皇陵として疑問視する向きもあることから、最近では(伝)仁徳陵古墳、大仙陵古墳などの名称を用いるのが一般的になってきている。

[English Translation]