織田氏 ({{engl}})

織田氏(おだし)は、日本の氏族。
武家・華族の家柄。

発祥地(苗字の地名)は越前国織田庄(福井県丹生郡越前町)。
本姓は藤原氏(のちに桓武平氏の系統と仮冒)。
実際は忌部氏の流れを汲むとされる。
越前の甲斐氏、朝倉氏と同じく、三管領の斯波武衛家の守護代であり、序列は甲斐氏に次いで二位であった。
室町時代は三管領の斯波武衛家の分国尾張国で尾張守護代を務める。
戦国時代 (日本)には一族同士の争いの結果、一族(清洲三奉行弾正忠家)の織田信長が勢力を大きく広げた。
しかし、天下統一を目前に本能寺の変で信長が討たれると内部分裂、有力家臣豊臣秀吉の台頭などで家勢は衰えた。
関ヶ原の合戦後に嫡流は零落しまもなく断絶、庶流は江戸時代には外様大名や高家、旗本、尾張藩、明石藩家老などとして存続した。
なかには藤掛氏、津田氏のように織田を称しない一族もいる。

明治維新後、大名の織田家四家が子爵に列した。
家紋は揚羽蝶、織田木瓜紋など。
通し字は「信」。

出自

織田氏は系図の上では平資盛の子と称する平親真を祖とする桓武平氏流と自称しているが、越前国織田庄(福井県丹生郡越前町)の劔神社の神官の出自であるともとされている。

また、織田剣神社にある『藤原信昌・兵庫助弘置文』の古文書によると、明徳4年(1393年)の6月17日に剣神社宝前に奉納し、置文を記した鎮守府将軍藤原利仁(あるいは利仁の岳父で、敦賀の豪族藤原有仁(忌部氏?))の系統と思われる藤原信昌、藤原将広父子が越前織田家の先祖に関連がある人物と伝わる。
事実、織田信長は「藤原信長」と称しているが、その根拠はここから来ていると言われており、実際に天文 (元号)18年(1549年)11月、熱田八ヶ村の熱田神宮で自ら「藤原信長」と認(したた)めている(『加藤文書』より)。
また、天文23年(1554年)6月11日、織田信長は熱田神宮に菅原道真画像(熱田神宮所蔵)を寄進。
その絵巻には「藤原織田勘十郎」と記してある。

また、他の学説としては、親真自身が忌部氏の出目とする説もある。

もともと、織田(越前ではオタと読む)姓は地名を指す。
織田という地名は、古代その地に越前国敦賀郡伊部郷(いべのごう)という郷があり、そこへ高麗から織女が漂着し、そのことを縁起して織田(オリタ→オタ)と改めたといわれる。
尾張国織田家も故郷の地名を自らの姓としたことが始まりとされる。
尚、『寛永諸家系図伝』(仮名本)において「織田」に振られた振り仮名は1箇所を除いて全て「オタ」である。
このため、戦国時代を通じてこの頃(江戸時代初期)までは「おた」が正しい呼び方だったのではと言う説もある。

下剋上

室町時代に入り、室町幕府の管領家で越前国や尾張国の守護を務める大名斯波氏の被官になり、一部の者が尾張へ移住した。
尾張守護代となった織田氏は、戦国の混乱期において弱体化した守護斯波氏に代わり徐々に頭角を現し、戦国大名として名乗りを上げた。
岩倉織田氏と清洲織田氏に分裂して抗争する。

織田信長の出現
清洲織田氏の三家老の一人であった弾正忠家の織田信定とその子の織田信秀はその才智と経済力を背景に主家を凌ぐ力をつけ、信秀の代には活発に軍事行動を展開し尾張統一を進めるとともに、美濃国の斎藤氏や三河国の松平氏、駿河国の今川氏と抗争し、武威を示した。

その子織田信長は、父の没後に起こった織田家の内紛を鎮める一方で、尾張守護の斯波氏をも追放し尾張統一を短期間でなしとげた。
さらに尾張へ進出してきた駿河守護の今川氏を桶狭間の戦いで破り、隣国三河国の徳川氏と同盟を結ぶことによって勢力を伸ばし、美濃国、伊勢国へ勢力を広げ、ついには上洛し足利将軍家の後継争いに介入するようになる。
足利義昭を盟主に奉じたものの、のち追放。
事実上室町幕府を滅ぼした。
その前後で越前国の朝倉氏や甲斐国武田氏を破りその後滅亡させるなど反抗する大名を武力で屈服させて天下統一事業を推進していた。
しかし、本能寺の変で信長は明智光秀の謀反によって討たれた。
この際、信長の嫡男で織田氏の当主であった織田信忠も二条城で討たれたため、政権の中核となるべき人物を失った織田政権は崩壊する。

信長の遺児達の運命
本能寺の変後の清洲会議において、信忠の遺子である三法師(織田秀信)が織田家の後継者として担ぎ出され、織田家及び天下の実権はその後見役におさまった豊臣秀吉に移行する。
秀吉に対抗した信長の三男織田信孝は敗北を喫し、自刃に追いやられている。
その後、秀信は豊臣政権下では美濃国岐阜城主となった。
関ヶ原の戦いにおいて秀信は西軍方に属したため改易された。

信長の次男織田信雄は豊臣政権下で織田氏ゆかりの清洲城主として100万石を領し、内大臣にまで昇るものの、小田原の役後の国替えを拒み、改易された。
その後、ゆるされて秀吉に仕えた。
また、信長の六男織田信秀 (侍従)、七男織田信高、八男織田信吉といった多くの息子たちは秀吉の家臣となった。
しかし関ヶ原の合戦で多くの息子たちは西軍に属し、没落した。

信長の弟織田信包は豊臣政権下で伊勢国津城主として、ある程度優遇されたものの、秀吉の不興を被り、改易された。
その後、ゆるされて秀吉に再び仕えた。
同じく信長の弟織田長益は茶道をもって秀吉に仕えた。

信忠(信長嫡男)の末裔

織田信長の嫡男・織田信忠は、父の信長と共に本能寺の変で討たれた。
その子・織田秀信(三法師)は清洲会議の決定により、織田弾正忠家を継いだ。
しかし、実権は豊臣秀吉に奪われ、美濃国岐阜城13万3千石の一大名に転落する。
関ヶ原の戦いで西軍に属して戦ったため、改易されて高野山へ送られた。
そして、秀信の死をもって信長の嫡流の断絶ということになっている。

ただし、『江源武鑑』によれば、秀信に娘がいたとしており、その娘と六角義郷の間に六角氏郷が生まれたという。
また、嫡流男系が郷士西山氏や織田(おりた)氏として土着したという記録もあり、これが事実であるとすると嫡流男系は正式な武士としての身分は失ったものの、士分の階層には留まり存続したことになる。
以上の記述が正しいとするならば、信長の嫡流男系と嫡流女系は存続していることになる。
しかし、六角氏郷には子女がいなかったため、嫡流女系は断絶している。
なお、『寛政重修諸家譜』など、公的な系譜は秀信に子女はいなかったとしている。

信雄(信長次男)の末裔

本能寺の変以降、織田信長の血筋を引き継いで明治まで続いた系統は、主として次男織田信雄・七男織田信高・九男織田信貞の子孫である。
信雄は小牧・長久手の戦いで徳川家康と組んで秀吉と戦うものの講和、服属するにいたった。
小田原合戦の後に国替えをめぐって秀吉と対立し、改易となった。
ほどなくゆるされて、御伽衆として秀吉・豊臣秀頼父子に仕えた。
豊臣家の滅亡後、徳川幕府に独立した大名として認められた。

織田信雄の子孫は、四男織田信良の系統が上野国小幡藩、後に出羽国高畠藩・天童藩の2万石の大名となった。
また、五男織田高長の系統が大和国宇陀松山藩、後に丹波国丹波柏原藩の2万石の大名となった。
両家ともに信長の末裔ということで、小藩でありながら江戸時代中期の宇陀崩れや明和事件に巻き込まれるまでは幕府から国主並の優遇を受けた。
近代に入り、両家ともに華族となり、子爵を与えられた。

宇陀松山藩主織田高長の三男織田長政 (旗本)は3000石を分け与えられて分家し、交代寄合となり、その子孫は高家旗本になった。
明治期から昭和期にかけて活躍した芸術家の織田一磨は直系の子孫である。
さらに、長政の次男織田信清 (旗本)は300石を分け与えられて分家し、旗本になった。

その他、天童藩・柏原藩両織田家ともに庶子に津田姓などを与え、家臣として分家させた。
具体的には、宇陀松山藩主織田高長の五男津田頼房の系統や高畠藩主織田信浮の十男津田長郷の系統などをあげられる。

その他の信長の子の末裔

織田信長の七男・織田信高の系統は、徳川幕府の旗本となり、後に高家旗本になった。
近江国内で2000石余りを領有した。
フィギュアスケート選手の織田信成 (フィギュアスケート選手)(信長より17代目)は、信高の直系の子孫という。
ただし7代織田信直が養子相続のため血筋の上では信長の次男・信雄の五男・高長の子孫となる。
(順に信雄、高長、長政、長喬、信義、信直で信長から数えた代は変わらない)

織田信長の九男・織田信貞の系統も、徳川幕府に旗本として仕え、後に高家旗本になった。
近江国内で1000石余りを領有した。
後に分知により700石余りに減った。
また、2代織田貞置の三男織田貞則、四男織田貞輝は分家し、それぞれ旗本になった。
静岡藩主徳川家達に仕えた織田泉之は貞輝の子孫である。

織田貞置の孫津田長経は、高家織田家の嫡子であったものの、病気のために嫡子の地位をしりぞき、近江国神崎郡河合寺村に閉居した。
その子孫である織田瑟々(津田貞秀の長女政江)は江戸時代後期の画家として知られる。

織田信貞の長男織田信次は、病気のため家督を相続できず、信次の長男織田貞幹は、尾張藩主徳川光友に召し抱えられて、家老にまで抜擢された。
また、貞幹の次男織田長居は分家し、尾張藩士になった。

信長の弟の末裔

織田信行系

織田信長の弟信行(信勝)の子孫は、2家が旗本になっている。
信行の孫織田昌澄は藤堂高虎や豊臣秀頼に仕え、豊臣家の滅亡後は近江国内に2000石を与えられて、旗本に取り立てられた。
その子織田信高 (旗本)は三男織田信英に500石を分け与え、旗本として分家させた。

織田信包系

織田信長の弟・織田信包は、関ヶ原の戦いで西軍に属したものの、大名として存続を許された。
丹波国丹波柏原藩主であったものの、孫織田信勝のときに無嗣断絶した。
ただし、改易に際して信包の四男織田信当は幕府から3000石を与えられて、旗本として召し抱えられた。

なお、信包の長男織田信重は伊勢国林藩1万石を領有する大名であったものの、父の死後に弟織田信則と遺領の相続争いをおこして、改易となった。
その子孫は肥後国熊本藩細川氏の家臣になった。

織田長益系(有楽流)

織田信長の弟で有楽斎こと織田長益は、関ヶ原の合戦で東軍に属し、加増されて摂津味舌3万石の大名となった(味舌藩)。
ただし、戦後は大坂城にあって豊臣秀頼の補佐にあたった。
豊臣家の滅亡後、長益は隠居し、四男織田長政 (大名)と五男織田尚長に各1万石を分け与えた。
長政の子孫は大和戒重藩・芝村藩の藩主、尚長の子孫は大和柳本藩の藩主となった。
織田信雄の系統の大名のような特別な待遇は受けられなかった。
近代に入り、両家ともに華族となり、子爵を与えられた。
なお、それぞれ藩主の庶子は渡会や溝口などといった別姓を称し、家臣になった。

なお、関ヶ原の合戦後、織田長益の長男織田長孝は美濃国野村藩1万石の大名に取り立てられたものの、その子織田長則のときに無嗣改易となった。
ただし、長則の弟織田長政の子孫は、加賀藩前田氏の家臣になった。

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