西大寺 (奈良市) (Saidai-ji Temple (Nara City))

西大寺(さいだいじ)は、奈良県奈良市西大寺芝町にある、真言律宗総本山の寺院。
奈良時代に孝謙天皇の発願により、僧・常騰(じょうとう)を開山(初代住職)として建立された。
南都七大寺の1つとして奈良時代には壮大な伽藍を誇ったが、平安時代に一時衰退した。
鎌倉時代に興正菩薩叡尊(こうしょうぼさつえいそん)によって復興された。
山号を勝宝山と称する(ただし、奈良時代の寺院には山号はなく、後になって付けられたものである)。
現在の本尊は釈迦如来である。

起源と歴史

西大寺は、天平神護元年(765年)に称徳天皇の勅願により創建された寺院である。
藤原仲麻呂の乱平定を祈願して孝謙上皇(称徳天皇)が造立した金銅四天王像を安置している。
この四天王像は西大寺四王堂に今も安置されるが、増長天像が足元に踏みつける邪鬼だけが創建当時のもので、その他の像、本体も後世の作、補作である。

「西大寺」の寺名は言うまでもなく、大仏で有名な「東大寺」に対するものである。
創建時は薬師金堂、弥勒金堂、四王堂、十一面堂、東西の五重塔などが立ち並ぶ壮大な伽藍を持ち、南都七大寺の1つに数えられる大寺院であった。
しかし、平安時代に入って衰退し、火災や台風で多くの堂塔が失われ、寺は興福寺の支配下に入っていた。

西大寺の中興の祖となったのは鎌倉時代の僧・叡尊(興正菩薩、1201-1290)である。
叡尊は建仁元年(1201年)、大和国添上郡(現・大和郡山市)に生まれた。
11歳の時から醍醐寺、高野山などで修行し、文暦2年(1235年)、35歳の時に初めて西大寺に住した。
その後一時海龍王寺(奈良市法華寺町)に住した後、嘉禎4年(1238年)西大寺に戻り、90歳で没するまで50年以上、荒廃していた西大寺の復興に尽くした。
叡尊は、当時の日本仏教の腐敗・堕落した状況を憂い、戒律の復興に努めた。
また、貧者、病者などの救済に奔走し、今日で言う社会福祉事業にも力を尽くした。
西大寺に現存する仏像、工芸品などには本尊釈迦如来像をはじめ、叡尊の時代に制作されたものが多い。
その後も忍性などの高僧を輩出するとともに、荒廃した諸国の国分寺の再興に尽力した。
南北朝時代_(日本)の明徳2年(1391年)に出された「西大寺末寺帳」には8ヶ国、同時代のその他の史料から更に十数ヶ国の国分寺が西大寺の末寺であったと推定されている。
(なお、現存の国分寺のうち、西大寺と関係を持つのは旧伊予国分寺のみであるが、他にも複数の国分寺が真言宗各派に属している)。

西大寺は室町時代の文亀2年(1502年)の火災で大きな被害を受け、現在の伽藍はすべて江戸時代以降の再建である。
なお、西大寺は1895年(明治28年)に真言宗から独立し、真言律宗を名乗っている。
真言律宗に属する寺院は、大本山宝山寺(奈良県生駒市)のほか、京都・浄瑠璃寺、奈良・海龍王寺、奈良・不退寺、鎌倉・極楽寺 (鎌倉市)、横浜市・称名寺 (横浜市)などがある。

伽藍と仏像

境内には本堂、愛染堂、四王堂、聚宝館(宝物館)などが建つ。
本堂前には東塔跡の礎石が残る。

本堂(重文)-

寄棟造、本瓦葺。
室町時代の焼失後に再建された堂が傷んだため、修理ではなく新築することとし、寛政10年(1798年)頃造営に着手、文化 (元号)5年(1808年)頃完成したものである。
土壁を一切用いず、装飾性の少ない伝統的な様式になる。
江戸時代後期の大規模仏堂建築の代表作として、1998年重要文化財に指定されている。
この堂はかつては宝暦2年(1752年)の建築とされていたが、正しくは前述のように19世紀初頭の建築である。

釈迦如来立像(重文)

西大寺の本尊。
建長元年(1249年)、仏師善慶の作。
いわゆる「清凉寺式釈迦如来像」の典型作で、京都・清凉寺にある三国伝来の釈迦像(「三国」はインド、中国、日本を指す)の模刻である。
像内には多数の納入品が納められていた。
西大寺の鎌倉復興期の仏像は、本像の作者善慶をはじめ、名前に「善」字を用いる善派と呼ばれる一派の作が多い。

文殊菩薩及び脇侍像5体(重文)

- 正安4年(1302年)の作。
像内には多数の納入品が納められていた。

四王堂-江戸時代、延宝2年(1674年)の再建。

十一面観音立像(重文)

-平安時代後期の作。

四天王立像(重文)

もともとは称徳天皇発願の四天王像だが,現在は足下の邪鬼にのみ奈良時代のものを残す。

愛染堂

京都御所の近衛公政所御殿を宝暦12年(1762年)移築したもの(移築年次は明和4年=1767年とも)。

愛染明王坐像(重文)

- 宝治2年(1247年)、仏師善円作。
小像ながら、日本の愛染明王像の代表作の1つ。
当初の彩色や切金文様がよく残る。
秘仏で、毎年10月-11月頃に開扉される。
作者の善円は、西大寺本堂本尊・釈迦如来像の作者である善慶と同人と推定されている。
像内には、小像にもかかわらず、多数の納入品が納められていた。

興正菩薩坐像

堂内向かって左の間に安置される,西大寺中興の祖・叡尊の肖像彫刻。
弘安3年(1280年)、叡尊80歳の時の肖像で、作者は仏師善春である。
長い眉毛、団子鼻の風貌は像主の面影を伝えるものと思われる。
西大寺の鎌倉再興期の仏像には像内には多数の納入品が納められているのが特色である。
中でもこの像には叡尊の父母の遺骨をはじめとするおびただしい資料が納入されていた。

聚宝館

-寺宝を展示する宝物館である。

塔本四仏坐像(重文)

釈迦如来、阿弥陀如来、阿閦如来、宝生如来の4体で木心乾漆造である。
今は失われた五重塔の初層に安置されていたと思われるもので、奈良時代末期の作。
4体のうち2体は東京と奈良の国立博物館に寄託されている。

文化財

境内が国の史跡に指定されている。

国宝

絹本著色十二天像

-12幅が完存する。
全体に絵具の剥落・退色が目立つが、現存遺品の少ない平安時代前期、9世紀の仏教絵画の大作として貴重。
奈良国立博物館に6幅、東京と京都の国立博物館に3幅ずつ寄託されている。

金銅透彫舎利容器

高さ37センチの小品ながら,各所に繊細な透彫を施した入念な作で,鎌倉時代の金属工芸を代表するものの1つである。

金銅宝塔及び納置品(壇塔)

-宝塔とは、円筒形の塔身に屋根を乗せた形の塔。
本作品は高さ約90センチの金銅(銅に金メッキ)製の塔だが、木造建築の外観を忠実に模している。
内部には叡尊が所持していた舎利を納める。
文永7年(1270年)の作。
正式の国宝指定名称は次のとおり。
「一、金銅宝塔、 一、金銅宝珠形舎利塔1基(下層内安置)、一、金銅筒形容器1合、一、赤地二重襷花文錦小袋1袋、一、水晶五輪塔赤地錦小袋共1基、一、水晶五輪塔織物縫合小裹共1基(以上上層内安置)」

鉄宝塔・舎利瓶

前期金銅宝塔と同形式の塔。
鉄製で高さ172センチの大型塔である。
内部に水瓶(すいびょう)形の銅製舎利容器5基を納める。
弘安6年(1283年)の作

金光明最勝王経10巻、附・月輪牡丹蒔絵経箱

-天平宝字6年(762年)の書写。
附(つけたり)指定の経箱は鎌倉時代の作。

大毘盧遮那成仏神変加持経7巻

天平神護2年(766年)、称徳天皇付きの女官吉備由利が発願し、西大寺四王堂に安置した一切経の一部。

重要文化財

(建造物)
本堂

(絵画)
絹本著色釈迦三尊像(仁王会本尊)
絹本著色文殊菩薩像
絹本著色吉野曼荼羅図

(彫刻)
木造釈迦如来立像(本堂安置)(附 像内納入品)
木造騎獅文殊菩薩及脇侍像5躯・像内納入品
厨子入木造愛染明王坐像 善円作(愛染堂安置)(附 像内納入品)

木造興正菩薩坐像(善春作)・像内納入品
木造十一面観音立像(四王堂安置)
四天王立像(銅造3、木造1)(四王堂安置)
乾漆吉祥天立像
木心乾漆阿弥陀如来・釈迦如来・阿閦如来・宝生如来坐像
木造行基菩薩坐像
木造大黒天立像・像内納入品

(工芸品)
黒漆彩色華形大壇・黒漆箱形礼盤(愛染堂所在)
金銅舎利塔(伝叡尊於伊勢感得)
金銅舎利塔(伝亀山天皇勅封)
金銅密教法具 一具(2004年重文指定)
金銅装犀角刀子
朱漆輪花天目盆 享徳四年銘
大神宮御正躰

(書跡典籍、古文書、歴史資料)
金剛仏子叡尊感身学正記
叡尊自筆書状三月十九日、同廿一日 法花寺宛(二通)
西大寺三宝料田畠目録
西大寺寺領絵図(大和国添下郡京北班田図 1巻、西大寺与秋篠寺堺相論絵図 1幅)
西大寺版板木 124枚

年中行事

大茶盛
-毎年1・4・10月に行われる。
直径30センチ以上、重さ6~7キロの大茶碗と長さ35センチの茶筅でお茶を立て、参拝客にふるまわれる。
叡尊が西大寺の鎮守八幡宮に茶を奉納し、お下がりの茶を参詣人にふるまったのが起源とされる。

アクセス

近畿日本鉄道大和西大寺駅下車 徒歩数分

[English Translation]