三左衛門事件 (San-saemon Incident)

三左衛門事件(さんさえもんじけん)とは、一条能保・一条高能父子の遺臣が権大納言土御門通親襲撃を企てたとして捕らえられた事件。
この事件は源頼朝死去の翌月に発生し、鎌倉幕府を揺るがせた。
「三左衛門」とは、首謀者とされた3名がいずれも左衛門尉であったことに由来する。

概要

建久10年1月20日 (旧暦)(1199年2月16日)、13日に発生した鎌倉幕府初代征夷大将軍源頼朝急逝の報が京都に伝わった。
後鳥羽院の院別当としてその院政を支えていた土御門通親は、長年頼朝やその盟友である九条兼実らと対立関係にあった。
それを知ると直ちに自らは右近衛大将に就任して空席となった左近衛中将に頼朝の後継者源頼家の推挙を実現させた。

ところが、2月14日 (旧暦)(同年3月12日)に、突然一条家 (中御門流)の郎党であった中原政経・後藤基清・小野義成が土御門通親の襲撃・暗殺を計画したとして拘束された。
一条家は源頼朝の縁戚で、2年前に死去した一条能保は頼朝の妹婿、その翌年(すなわち拘束の5ヶ月前)に急逝した息子・高能は頼朝の甥にあたった。
いずれも京都守護として活躍し、3名は一条家の郎党であるとともに、在京御家人でもあった。
換言すれば、一条親子の職務を補佐していた言わば鎌倉幕府の京都における代表の一員とも言うべき人物であった。

従って、鎌倉幕府が通親暗殺を計画していたという疑惑が持ち上がった。
これに危機感を抱いた頼家ら鎌倉幕府首脳は奉行人である中原親能を上洛させて弁明に努めた。
その結果、朝廷は幕府の弁明を受け入れた。
しかしながら、三左衛門(中原・後藤・小野)は所領没収の上に鎌倉に送還、後藤基清が兼ねていた讃岐国守護を免職された。
一条家と関係の深かった西園寺公経(能保の娘婿)・持明院保家(能保の従兄弟・猶子)・源隆保の3名の公卿・官人も出仕を止められて失脚した。
更に一条家や鎌倉幕府と親交が厚かった僧侶文覚も佐渡国に流罪となった。
これによって、朝廷内の親鎌倉幕府派は一時的に壊滅的な打撃を蒙った。

この事件の裏には土御門通親がいたと考えられている。
しかしながら、九条兼実の弟・慈円が著した『愚管抄』には、源頼家に近い有力御家人の梶原景季の京都滞在中に事件が起きたこと、鎌倉幕府政所別当の大江広元が通親の方人(同志)であったと記述されている。
これについて、河内祥輔は九条兼実の日記『玉葉』建久9年正月6日・7日条に源頼朝が、後鳥羽天皇(当時)退位後の後継者として、天皇の同母兄で頼朝の遠縁にあたる持明院陳子を妃としていた守貞親王を推挙する意向を示していることを記していることを指摘している。
後鳥羽天皇はこれを無視して同月11日に実子の為仁親王(土御門天皇)を立太子して即日に譲位した。
しかしながら、この頼朝の提案が事実とすれば為仁親王の外祖父である土御門通親は勿論のこと、守貞に譲位されれば治天の資格を喪失することになる後鳥羽院はともに強く反発したと予想され、朝幕関係は極めて緊張したと考えられる。
河内説は広元・景季が頼朝の死をきっかけに守貞擁立構想の責任を中御門流一条家及び同族の持明院家に転嫁することによって、新将軍頼家と後鳥羽院の関係を一から再構築しなおして事態の収拾を図ったとしている。

建仁2年(1202年)の土御門通親の病没から2ヶ月後、九条兼実の子九条良経が摂政となった。
これをきっかけに九条家と縁戚関係にあった3名の公卿・官人は政界に復帰した。
一条家の当主一条信能(能保の子)やその甥の一条頼氏(高能の子)も後鳥羽院の院近臣に取り立てられ、三左衛門も赦免を受けたが、後鳥羽院に疎まれていた文覚のみは現地で客死している。
後鳥羽院は依然として鎌倉幕府に不満を抱いていた。
しかしながら、親幕府派とされた九条家・西園寺家・中御門流一条家が後鳥羽院政を支える構造の形成と親朝廷派とみなされた源実朝の将軍就任によって幕府と対立する表立った理由が失われる。
そして、実朝暗殺事件までは、朝廷と鎌倉幕府の関係は一応の安定期に入る事となる。

なお事件発覚の際に、文覚が保証人となることで一命を救われていた平六代(平維盛の子)も文覚に連座して処刑された。
この事件のとばっちりを受ける形で、無関係であった平家一門の嫡流は断絶することとなった。

[English Translation]