朝鮮総督府 (Chosen Sotoku-fu (Governor-General of Korea))

朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)は、1910年(明治43年)、韓国併合によって日本統治時代の朝鮮を統治するために、当時の大日本帝国が設置した官庁である。
庁舎は、京畿道 (日本統治時代)京城府(現在の大韓民国ソウル特別市)の景福宮敷地内に設置されていた。

韓国統監府を前身とし、大韓帝国を改組・統合したが主要高官はほぼ日本人であった。
初代総督は寺内正毅。
総督は日本の現役の陸軍大将か海軍大将が歴任した。
1945年、太平洋戦争における日本の敗戦に伴い連合軍の指示により業務を停止。
その権限は在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁に引き継がれた。

総督府により、言論の制限や結社の禁止、独立運動などへの取り締まり等が行われた。
インフラストラクチャーの整備が行われ結果として伝染病の予防や出生率の増加におよび、教育施設では皇民化教育、日本語やハングルの教育が進められた。
これらの政策や事業に対しては批判する意見と評価する意見がある。

概要

朝鮮総督は天皇に直隷して、委任の範囲内に置ける朝鮮防備のための軍事(後に陸海軍司令官への軍事請求権に改正)を行使したり、内閣総理大臣を経由して立法権、行政権、司法権や王公族及び朝鮮貴族に関する多岐な権限を持っていた。
朝鮮総督府には朝鮮総督府政務総監、総督官房と5部(総務、内務、度支、農商工、司法)が設置されたほか、中枢院、警務総監部、裁判所、鉄道局(朝鮮総督府鉄道)、専売局、地方行政区画である道、府、郡など朝鮮の統治機構全体を包含していた。

日本政府は朝鮮を内地と同様の経済水準に引き上げるため、多額の予算を朝鮮半島に投資した。
鉄道、道路、上下水道、電気、病院、学校、工場などのインフラの整備を行い、近代教育制度や近代医療制度の整備を進め、朝鮮半島の近代化に役立ったと主張する研究者もいる。
こうした結果、朝鮮半島で流行していた伝染病が予防され、農地の開発等により食糧生産が増加(併合当初米の生産量が約1千万石 (単位)であったものが、20年後には2千万石へと倍増)した。
このことにより、朝鮮半島の人口は、併合前の1906年には1600万人程度だったものが1940年には2,400万人程となり、平均寿命も併合時(1910年)24歳だったものが、1942年には45歳まで伸びることとなった。

しかし朝鮮における経済開発は主として日本の工業化と食糧不足を補完する目的で行われた。

高い経済発展とは裏腹にその果実の大部分が在朝日本人や日本企業に分配され、米をはじめとする多くの食料が日本に贈られ、朝鮮人(とりわけ農村部)への分配度は低かったとする研究者もいる。
また植民地一般の傾向にもれず、在朝日本人と原住民たる朝鮮人の間の所得格差も非常に大きいものがあったと主張する者もいる。
一方で、それらは単なる商行為であり、儲けていた朝鮮人も当然におり、また、所得も向上しており問題はなかったとする研究も存在する。
現地文化に対しては否定的な態度をとり、総督府統治に反対する朝鮮独立運動は厳しく取り締りされた。

政策の変遷

朝鮮総督府の初期の政策は「武断政治」と呼ばれた。
武断政治は、植民地同化政策に反対する独立運動弾圧のために政治活動を一切禁止し、徹底した軍政のもと植民地統治の基礎を作ることを目的とした。
このため朝鮮に日本の憲法を施行せず軍の大権により統治するとした。
総督の命令(制令)が司法・行政・立法の全機能を有し、帝国議会の議決は不要とされた。
言論、集会、結社の自由も、(国際世論への配慮のため)一部のキリスト教徒を除き大きく制限され、朝鮮警察事務をすべて日本軍に委任し、通常の警察でなく軍の憲兵(軍事警察)が一般警察官を兼ねるとした。
(併合年で憲兵は2019名。
1012名の朝鮮人憲兵補助員も含む。)
憲兵は一般の朝鮮人に対して極めて威圧的な制度だったと言われている。
具体的にはスパイや義兵鎮圧の名目で、法的手続なしに朝鮮人を逮捕し処罰出来るものであり、朝鮮人の日常生活に関与した。

憲兵は一般行政事務として「日本語普及」や徴税も行い、農事改良をし、「所有者のいない」農地を接収した。
総督府は土地所有者の調査を進め、所有者のいない土地は接収し、東洋拓殖に買い取られ、進出した日本人や現地有力者に分配された。
総督府が接収した農地は全耕作地の3.26%ほどである。
李王朝時代の朝鮮は、農地が荒廃しており、民衆は官吏や両班、高利貸によって責めたてられて収奪されていた。
日本は朝鮮の農地にて、水防工事や水利工事をし、金融組合や水利組合もつくったことで、朝鮮農民は安い金利で融資を受けることができるようになり、多大な利益をもたらすようになったとする研究者もいる。
大地主である朝鮮人は、生産性が上がり日本へ米を輸出できるようになったことで多額の儲けを得ていた。
その代表例はサムスングループの創始者である李秉喆である。
彼は慶尚南道の大地主の次男として生まれ、米の輸出で得た多額の資金を元手に1938年に大邱広域市にて三星商会を設立し、これがのちのサムスングループに発展していった。
その反面、農家が土地を収奪され、困窮した人々が満州や日本国内、沿海州などへ移住する結果となってしまったとする論もある。
また土地調査事業は、申告主義による所有権確立が目的だったが、周知の不徹底や課税を恐れ不申告の土地が多数有った。
結果的に多くの土地が国有地に編入され、朝鮮の農民の多くが土地の所有権を喪失したとする研究者もいる。
逆にソウル大学校教授李栄薫は、韓国で教えられている「日帝による土地収奪論」は神話であり、客観的数値で見ても日本が編入した朝鮮の土地は10%に過ぎないとする研究者もいる。
また1910年から1920年代中頃までは朝鮮人の平均身長も伸びており「朝鮮人の生活水準が着実に向上していたのは明らか」とする見解も存在している

李氏朝鮮では庶民に対する教育をする機関がほぼなく、7割程度の朝鮮人が読み書きができなかった。
また朝鮮では両班を中心に漢字が重視されており、ハングル(朝鮮語)は軽視されていた。
そうした中、日本は朝鮮語教育に力を入れ、朝鮮民衆にハングルが広まったのは、日本の政策の結果であったとする意見も存在している。
総督府は1912年、近代において初めて作成された朝鮮語の正書法である普通学校用諺文綴字法を作成し、1930年には児童の学習能率の向上、朝鮮語の綴字法の整理・統一のための新正書法である諺文綴字法を作成した。
しかしその一方、朝鮮語の使用を管理・弾圧もしており、日本語教育など同化政策も進められていた。

朝鮮には憲法も選挙法も適用されていなかったが、朝鮮人も日本国籍を付与されていたため、内地における衆議院選挙に参加することは可能であった。
唯一朝鮮人として朴春琴が衆議院議員に選出されている。
貴族院議員には通算10人の朝鮮人議員が任命されている。
そのほか地方議会の議員に選出される者、中央官庁や地方公共団体に勤務する者もいた。

また朝鮮の郡守、面長(内地の郡長、村長に相当)は原則として朝鮮人であった。

石窟庵等の遺跡、総督府庁舎の置かれた景福宮等が日本による破却や損傷を受けており、慶熙宮のように完全に破却された宮殿もあったが、景福宮正門であった光化門や崇礼門など、保存運動などによって保存された建造物もあった。
また、北関大捷碑など各地にあった文化財も日本により朝鮮半島外へ持ち出されることがあった。

1919年の三・一独立運動後、内地における大正デモクラシーの影響もあって「武断政治」は融和的な「文化政治」(朝鮮総督府文化政治参照)に転換する。
が、1937年に日中戦争が勃発すると朝鮮でも戦時体制下で皇民化教育が推進され、日本が敗戦を迎えるまで各種の人的資源の動員や、商行為を通して様々な資源、食品の日本への大量移送なども行われた。
朝鮮人の中には軍人・軍属として第二次世界大戦に参加した者(朝鮮人日本兵含む)や、慰安婦として働いた朝鮮人女性も存在した。

警察機構

当時韓国統監であった寺内正毅は併合直前の1910年7月に明石元二郎憲兵隊司令官に警務総長を兼務させることによって憲兵と普通警察を一体化した。
これを憲兵警察制度 (朝鮮総督府)という。
韓国併合年で「憲兵警察」と「一般警察」を合わせて、7712名(その内、朝鮮人は4440名)。
「憲兵警察」は2019名(その内、朝鮮人は1012名)であった。

朝鮮全土に日本軍や警察が配置され、憲兵以外の軍人も統治や警察活動を行った。
丁度その頃に開設された西大門刑務所は、独立運動家を多く収容し、処刑したことで知られている。
朝鮮独立を求める運動や日本支配への抵抗運動は厳しく取締りが行われた。
憲兵警察は文化政治への転換に伴い廃止される。
朝鮮総督府警察は普通警察に移行した後も、日本内地の警察には無い機関銃、野砲等の重装備を保有しており、日本の支配が及ばない中国領から越境してくる独立派武装勢力との戦闘を行うなど警察軍的性格を有していた。

文化政治

三・一独立運動に衝撃を受けた日本政府は、武力だけで朝鮮支配は不可能と判断し、また大正デモクラシー期における政党内閣の登場や、武断政治批判の日本国内世論にも配慮し、武断政治を一部変更した。
原敬首相は、長谷川好道総督を更迭し穏健派の斎藤実総督(海軍大将)を任命した。
民族運動の要求を一部受容し、運動を分裂・弱体化させることで安定的支配を構築することを目指したが、政策の基本は内地延長主義、すなわち同化主義であり、朝鮮と日本内地の制度的差別を縮小し、現地の不満を減少させ同化をはかるものである。

1919年8月20日勅令により総督武官制を廃止し、制度上は文官でも総督就任可能としたが、実際には実現せず、斎藤以外の総督はすべて陸軍大将だった。
また普通警察制度への改編をはかり、憲兵警察を廃止したが、多くの警察が日本から派遣され警察官は1919年の6,387人から1920年には20,134人へと急増した。
独立運動の監視体制はむしろ強化された。
言論や結社の自由はやや緩和され、韓国語の新聞・雑誌の発行が認められた。
この時代には朝鮮人による合法的民族運動が盛り上がり、朝鮮文学の発展や大都市における大衆文化の発達が見られた。
ただし同化教育はさらに推進され、学校での朝鮮語の時間は減少し、かわりに日本語の時間を増加させた。
1938年4月1日からは小学校教育における教授用語が日本語に限定された(小学校令16条8号)。
小学校未就学の青年には「朝鮮特別青年錬成所」への一年の入所を義務とし、600時間の教育を行った。
このうち日本語教育が400時間を占めた。

1924年には京城帝国大学が開設され、民立大学期成運動に対抗した。
大学内では日本人学生が6割以上を占め、教育内容は日本文化中心であった。
1940年4月には「忠良有為ノ皇国民ヲ錬成スル」という目的を掲げた。

職員

台湾総督府をはじめとする他の外地政庁と異なり、朝鮮総督府は大韓帝国政府の機構を殆どそのまま継承したため、最初から多くの朝鮮人官僚を抱えていた。

王公族・朝鮮貴族

特権的身分制度が設けられ、韓国の旧皇族は王公族に、韓国併合に功績あるものは朝鮮貴族となった。

庁舎建築

1995年まで見られた旧朝鮮総督府庁舎は、景福宮の宮殿正面に1926年に造られた建築である。
日本で事務所を開いていたドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデが基本設計を行い、デ・ラランデの死後、日本人建築家(野村一郎、國枝博ら)が完成させた。
4階建てで中央に大きな吹き抜けを持っていた。

建築概要

階数5階建/構造鉄筋コンクリート構造

建坪2,134坪1合6勺(約7,055 m²)/総延坪9,619坪7合5勺(約31,800 m²)

軒高75尺(約22.7m)、中央塔高180尺(約54.5m)

室数257室/大広間210坪(約694 m²)/大会議室106坪4合(約351 m²)/様式復興式

外壁体花崗岩(ソウル東大門外産出)、内部壁間煉瓦積

工費636万4,482円(他に外囲倉庫及構内整理費38万7,500円)

朝鮮総督府は宮殿正門の光化門を移築の上保存し、朝鮮王朝の正宮だった景福宮の付随的な建物の多くは破却したが(一説に8割以上とも)、正殿の勤政殿や慶会楼などの象徴的な建物の大部分は保存されることとなった。
宮殿の前面には朝鮮総督府庁舎が建てられ、以後ここが朝鮮における行政の中核地となる。
朝鮮総督府庁舎が完成すると街から宮殿は見えなくなり、これらにより朝鮮民族(朝鮮人)にとって総督府庁舎は屈辱的な歴史の象徴ともいわれるようになった。
これも現在まで続く反日感情の一因であると見られている。

独立後の庁舎

1948年8月、大韓民国政府の樹立に伴い旧総督府の庁舎は政府庁舎として利用され、中央庁と呼ばれた。
大韓民国の成立宣言はここで行われている。

その後、韓国国内でも、旧植民地の遺構として撤去を求める意見と、歴史を忘れないため保存すべきという意見があり議論が行われたが、大韓民国の韓国国立中央博物館として利用されることになった。
依然として、屈辱の歴史の象徴であることには変わりはなく、保存か解体かの論議がしばしば再燃した。
最終的には、かつての王宮を塞ぐ形で建てられていることから、反対意見を押し切り、旧・王宮前からの撤去が決まった。
撤去の方法として移築も検討されたが、莫大な費用がかかるため、1995年に尖塔部分のみを残して庁舎は解体された。
現在、尖塔部分は天安市郊外の「独立記念館」に展示されている。
跡地には庁舎建設によって取り壊された王宮の一部が復元され、現在は同宮の正面入口となっている。

韓国における近代建築の保存

旧朝鮮総督府庁舎は撤去されたが、旧ソウル駅舎(旧京城駅)(塚本靖設計と言われる)や韓国銀行本店(旧朝鮮銀行、辰野金吾設計)などについては保存措置が講じられている。
西大門刑務所は現在博物館となり周囲は独立公園となっている。

前史

朝鮮総督府設置に至る歴史については韓国併合を参照

朝鮮総督府の組織

総督官房

総務部

- 人事局、外事局、会計局

内務部

- 地方局、学務局

度支部

- 司税局、司計局

農商工部

- 殖産局、商工局

司法部

朝鮮総督府中枢院

- 朝鮮人名士を主体とする諮問機関。
単なる諮問機関であって議会ではないためその議決は拘束力を持たなかった。

総督

- 陸海軍大将を以て充てる。
親任官。

朝鮮総督府政務総監

- 親任官。

長官

- 各部の長。
勅任官。

局長

- 各局の長。
勅任官。

参事官

- 奏任官。
2名の内1名を勅任官にできる。

秘書官

- 奏任官。
2名。

書記官

- 奏任官。
19名。

事務官

- 奏任官。
19名。

技術者

- 奏任官。
30名の内2名を勅任官にできる。

通訳

- 奏任官。
6名。

技手

- 判任官。
337名。

通訳生

総督府附武官

- 陸海軍少将又は佐官を以て充てる。
参謀。

専属副官

- 陸海軍佐尉官を以て充てる。

歴代朝鮮総督

日本政府は台湾に比して朝鮮を重視して、台湾総督と異なり、韓国統監・朝鮮総督には相当地位の高い政治家・軍人が任用された。
総督は海軍大将の斎藤を除く全てが陸軍大将。

韓国統監

伊藤博文(1906年 - 1909年)

曽禰荒助(1909年 - 1910年)

寺内正毅(1910年)

朝鮮総督

寺内正毅(1910年 - 1916年)(1911年まで陸軍大臣兼任、1911年以降専任)

長谷川好道(1916年 - 1919年)

斎藤実(1919年 - 1927年)

宇垣一成(1927年)(臨時代理)

山梨半造(1927年 - 1929年)

斎藤実(1929年 - 1931年)

宇垣一成(1931年 - 1936年)

南次郎(1936年 - 1942年)

小磯国昭(1942年 - 1944年)

阿部信行(1944年 - 1945年)

1905年5月28日

- 京釜線開通式

1905年11月17日

- 第二次日韓協約(乙巳保護条約)締結

1906年2月1日

- 韓国統監府設置

1907年6月25日

- ハーグ密使事件

1907年7月20日

- 高宗 (朝鮮王)退位、純宗 (朝鮮王)即位。
翌年にかけて日本軍は反日義勇軍1万4千人との1774回の戦闘を行った。

1907年8月1日

- 韓国軍解散

1908年12月18日

- 東洋拓殖設立

1909年7月6日

- 日本、韓国併合方針を閣議決定

1909年10月26日

- ハルビンで伊藤博文が暗殺される

1909年12月4日

- 韓国の一進会より「韓日合邦を要求する声明書」の上奏文が提出される

1910年3月14日

- 土地調査事業開始

1910年6月30日

- 憲兵警察制度発足

1910年8月22日

- 日韓併合条約(日韓併合条約)調印

1910年8月29日

- 朝鮮総督府設置

1911年8月23日

- 第一次朝鮮教育令。
国語を日本語にする。

1912年1月1日

- 標準時を韓国標準時から日本標準時に変更

1912年4月

- 普通学校用諺文綴字法が確定

1914年3月1日

- 地方行政区画改正(府・郡・面制)

1919年1月21日

- 高宗死去

1919年3月1日

- 三・一独立運動始まる

1919年8月12日

- 斎藤実、第3代総督に就任

1919年8月20日

- 憲兵警察制度廃止

1919年10月5日

- 金性洙、京紡設立

1920年3月5日

- 朝鮮日報創刊

1920年4月1日

- 東亜日報創刊

1920年12月27日

- 総督府、産米増産計画立案

1926年4月1日

- 京城帝国大学開設

1927年2月16日

- 社団法人朝鮮放送協会、ラジオ開始

1927年5月2日

- 朝鮮窒素株式会社設立

1929年11月3日

- 光州学生事件(- 1930年3月)

1930年5月30日

- 間島5・30事件

1930年

- 諺文綴字法制定

1931年7月2日

- 万宝山事件

1931年9月18日

- 満州事変勃発

1931年1月8日

- 韓人愛国団員・李奉昌、東京市で昭和天皇暗殺未遂事件(桜田門事件)

1931年4月29日

- 愛国団員・尹奉吉、上海爆弾テロ事件(上海天長節爆弾事件)

1936年8月9日

- 孫基禎、ベルリンオリンピックマラソンで優勝

1937年6月1日

- 金日成、普天堡の戦いを起こす

1937年7月7日

- 日中戦争勃発

1937年10月2日

- 「皇国臣民の誓詞」制定。

1938年2月26日

- 志願兵公布

1938年3月4日

- 朝鮮教育令改正、朝鮮語の授業必須から外す

1940年2月11日

- 創氏改名実施

1941年3月31日

- 国民学校規定改正、朝鮮語の授業廃止

1941年12月8日

- 太平洋戦争(大東亜戦争)勃発

1942年10月1日

- 朝鮮語学会事件

1944年4月1日

- 第1回徴兵検査開始

1944年8月23日

- 女子挺身隊勤労令公布

1945年8月9日

- ソビエト連邦対日参戦、豆満江を越える。

1945年8月15日

- 日本政府、ポツダム宣言受諾。
呂運亨、朝鮮建国準備委員会結成

1945年8月21日

- ソビエト連邦軍、平壌進駐

1945年8月25日

- アメリカ軍、仁川広域市上陸

1945年9月6日

- 呂運亨らは朝鮮人民共和国の樹立を宣言

1945年9月7日

- アメリカ極東軍司令部、朝鮮における占領行政を宣言(即時独立否認)

1945年9月9日

- 総督府、降伏文書に調印

[English Translation]