韓国併合 (Annexation of Korea)

韓国併合(かんこくへいごう)は、1910年8月22日、日韓併合条約に基づいて日本が大韓帝国(今日の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国に相当する地域)を併合した事を指す。
日韓併合(にっかんへいごう)、朝鮮合併(ちょうせんがっぺい)、日韓合邦(にっかんがっぽう)などの表記もある(韓国では韓日併合、中国では日韓併合と表記する)。

韓国併合によって大韓帝国は消滅し、日本はその領土であった朝鮮半島を領有した。
1945年の第二次世界大戦終戦に伴い実効支配を喪失し、1945年9月2日、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印によって、正式に日本による朝鮮支配は終了した。

併合条約の日韓の見解
日本側が韓国併合は現在において「もはや無効」であるという立場をとることで日韓併合条約の締結自体は合法であったという考えを内包している。
それに対して、韓国・北朝鮮とも日韓併合条約は違法に結ばれた条約であるから同・条約と関連する条約のすべてが当初から違法・無効であり、日本の朝鮮領有にさかのぼってその統治がすべて違法・無効であるという立場を崩していない。
この点については65年に国交を回復した韓国と日本との間においても合意に達していない。

「韓国併合」というとき、大韓帝国が消滅し、朝鮮が日本の領土となった瞬間的事実だけではなく、併合の結果として朝鮮を領有した継続的事実を含意する場合もある。

時代背景と日本・朝鮮の世論

明治維新後、急速に発展を遂げた日本は対外的な国防政策を考えた場合に朝鮮半島が地政学的に大きな意味があると考えた。
古来より永きに渡って琉球と並んで日本と大陸との交流におけるパイプ役を果たしてきた朝鮮半島が敵対国家に渡ることは、日本にとって戦略的に致命的な弱点を握られることを意味していると考えたためである。

当時、李氏朝鮮は清朝中国を中心とした冊封体制を堅持し、鎖国状態にあった。
日本の開国・冊封体制からの離脱は、長らく東アジア国際秩序を保証していた中華秩序への挑戦であり、李氏朝鮮はこれに批判的であった。
日本による近代化の要請も内政干渉であると考えた。
また日本も善意か悪意かは別として干渉であることを自覚していた。
日本の民間知識人による近代化の提言も、侵略的意図によるものと考えられるか朝鮮王朝内部における政争の具にしかならなかった。

しかし、西欧列強や日本は朝鮮半島の鎖国状態が続くことを許さず、日本は江華島事件を機に李氏朝鮮と日朝修好条規を締結した。
それを皮切りに李氏朝鮮は列強諸国と不平等条約を結ばされて開国を強いられる。
その際、日本は「朝鮮は自主の邦」という文言に固執した。
しかし、中華秩序において冊封を受けた朝貢国は元々「自主の邦」であるため、清朝の冊封体制から離脱させようという日本の意図は朝鮮王朝にとっても朝鮮の知識人にとって理解しがたいものであった。
誤解されがちだが、冊封体制下の国、すなわち「朝貢国」とは即、「属国・保護国」を意味するものではない。
朝貢国が政治的に中国に従属している度合いはきわめて多様であり、多くの場合は朝貢貿易の側面が強かった。
しかし、これが近代的な西欧的国際関係の論理に翻訳されたとき、日韓での認識の差が生じた。

開国後、甲申政変が起きるなど、李氏朝鮮の内部からも改革の要請は出ていたが、大院君、閔妃はあくまでも旧来の、李氏朝鮮王朝を守り通そうとしていた。
日本は清国とともに朝鮮半島の政治改革を目論んだ。
しかし、清国はあくまでも朝鮮は冊封体制下の属邦であるとの主張を変えなかった。

日本と清とが緊張するなか、悪政と外国による侵略を排除すると唱えた農民反乱・甲午農民戦争が起きた。
日本と清の両国とも、その鎮圧を名目に朝鮮に出兵し、1894年日清戦争が勃発した。
日清戦争で勝利した日本は、清国との間に下関条約を結んで李氏朝鮮が自主独立国であることを認めさせることで、朝鮮における清国の影響力を排除することに成功した。

日清戦争直後の朝鮮半島では改革派の勢いが強かった。
しかし、日本が三国干渉に屈するのを見た王室をはじめとする保守派が勢力を回復してロシアに接近、政争が過激化した(閔妃暗殺も、この時期である)。
1896年に親露保守派が高宗_(朝鮮王)をロシア公使館に移して政権を奪取した。
高宗はロシア公使館にて1年あまり政務を執った(露館播遷)。
これにより李氏朝鮮がロシアの保護国と見なされる危険性もあったと考え、日本は朝鮮への影響力を維持するため1897年に大韓帝国と国号を改めて独立の事実を明確にさせようとした。
結局、大韓帝国成立後も実質的に李氏朝鮮王朝と同様の政体が朝鮮を支配することとなった。
進歩会(のちの一進会)などの改革派は弾圧され(改革派への弾圧を日本政府に依頼することすらあった)、開化は進まなかった。

日本国内では再び朝鮮半島への改革に介入すべきだとの世論が起こった。
また、遅々として進まない朝鮮半島の政治改革に「日本が併合してでも改革を推し進めるべきだ」とする世論が台頭した。

桂太郎は「欧州に並ぶ強国になるには新たな領土が必要だ」という見地からこれを強力に推し進めた。
これにより朝鮮の自国領土への編入を望む日本政府と、日本世論とは合致した。

韓国統監であった伊藤博文と彼を中心とするグループは、「併合は時期尚早である」として反対した。
この反対論は、下記などから導き出された立場であった。
第一に朝鮮の統治政策に関して「将来、朝鮮で日本への抵抗・独立勢力になり得る芽を先に除去すべき時期である」と考えて抵抗勢力や反乱についての対策に腐心していたこと。
特に義兵活動が盛んなところでは村の大部分を焼き払う等の方法を用いた強引な弾圧を推し進める(吉田光男_2004134頁)などしていたこと。
第二に日本国内に目を向けて「国内産業の育成に力を入れるべき時期だ」と考えていたこと。
第三になにより対外的に「まだ国際社会の同意を得られない」と考えていたこと。

保護国化の進行

大韓帝国は冊封体制から離脱したものの、満州を手に入れたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに明確な南下政策を取りつつあった。
当初、日本は外交努力で衝突を避けようとした。
しかし、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。
1904年、日露戦争の開戦である。

日本政府は開戦直後に朝鮮半島内における軍事行動の制約をなくすため、1904年2月23日に日韓議定書を締結した。
また、李氏朝鮮による独自の改革を諦め韓日合邦を目指そうとした進歩会は、鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。
8月には第一次日韓協約を締結し、財政顧問に目賀田種太郎、外交顧問にアメリカ人のドーハム・スティーブンスを推薦した。
日本政府による推薦者を加えて影響力を確保し、他国への便宜供与を制約しようとの試みである。
他方で閔妃によってロシアに売り払われた関税権を買い戻すなど、その影響力を増していった。
一方、高宗は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの密使外交を展開していった。

この高宗の密使外交を排するために日本政府は日露戦争終結後の1905年11月に第二次日韓協約(韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ)を締結し、12月には韓国統監府を設置して外交権をその支配下に置いた。
しかし第二次日韓協約の締結を認めない高宗は条約締結は強制であり無効であると訴えるため、1907年第2回万国平和会議に密使を派遣した(いわゆるハーグ密使事件)。
これに対して韓国統監であった伊藤をはじめとした日本政府首脳は激昂し、高宗を強制的に排除した。
李完用らの協力もあり、7月20日には半ば強制的に高宗は退位に追いこまれ、純宗_(朝鮮王)が第2代の大韓帝国皇帝として即位した。
7月24日には第三次日韓協約を結んで内政権を掌握し、直後の8月1日には大韓帝国の軍隊を解散させるにまで至った。

これを不満とした元兵士などを中心として、抗日目的の反乱が起きた。
しかし、兵のほとんどが旧式の武装しか持たず、兵としての練度もなかったためにほどなく鎮圧された。
もともと、軍隊としての存在意義が薄かったための解散でもあった。
残存兵力はその後の抗日義兵闘争に加わったともされる。

日本統治時代

1909年7月に韓国併合の方針が閣議決定されたものの、韓国統監府を辞して帰国していた伊藤博文はあくまでも併合自体は将来的な課題として早期合併に抵抗を続けていた。
しかし、10月26日に安重根によって伊藤博文が暗殺されたことにより早期併合に反対する有力な政治家がいなくなったこと、および初代首相であり元老のひとりでもあった伊藤を暗殺されたことによって日本の世論が併合に傾いていった。
韓国併合に向けて着々と準備が進む中、1909年12月4日、突然韓国の一進会より「韓日合邦を要求する声明書」の上奏文が提出された。
韓国国内では国民大演説会などが開かれ、一気に一進会糾弾と排日気勢が高まり、在韓日本人新聞記者団からも一進会は猛烈な批判を浴びせられた。
そもそも「韓日合邦を要求する声明書」は韓国と日本が対等な立場で新たに一つの政府を作り、一つの大帝国を作るという、当時の現状から見ても日本にとっては到底受け入れられない提案であった。
また、無闇に韓国の世論を硬化させる結果を招き、統監府からは集会、演説の禁止命令が下された。

韓国併合の閣議決定から1年、いろいろと紆余曲折はあったが、閣議決定どおり、1910年8月22日に日本は日韓併合条約により朝鮮半島を併合した。

これにより、大韓帝国は消滅し、朝鮮半島は第二次世界大戦(大東亜戦争、太平洋戦争)の終結まで日本の統治下に置かれた。
大韓帝国政府と韓国統監府は廃止され、かわって全朝鮮を統治する朝鮮総督府が設置された。
韓国の皇族は日本の皇族に準じる王公族に封じられた。
また、韓国併合に貢献した韓国人は朝鮮貴族に封じられた。

朝鮮総督府は1910年 - 1919年に土地調査事業に基づき測量を行ない、土地の所有権を確定した。
この際に申告された土地の99%以上は地主の申告通りに所有権が認められた。
しかし、申告がなされなかった土地や、国有地と認定された土地(主に隠田などの所有者不明の土地とされるが、旧朝鮮王朝の土地を含むともいう)は接収され、東洋拓殖株式会社法(1909年法律第63号)によって設立され、朝鮮最大の地主となった東洋拓殖や、その他の日本人農業者に払い下げられた。
これを機に朝鮮では旧来の零細自作農民が小作農と化し大量に離村した。
朝鮮総督府は東洋拓殖会社の一部の資金で朝鮮半島でチッソなどの財閥に各種の投資を行った。
日本の統治下で、李朝時代の特権商人が時代に対処できず没落する一方、旧来の地主勢力の一部が乱高下する土地の売買などによって資金を貯め、新興資本家として台頭してきた。
これらの新興資本家の多くは総督府と良好な関係を保ち発展した。

大韓民国における日本統治時代の呼称

日本統治時代を韓国側が日帝強占期(韓国の公営放送KBS=韓国放送公社=ではこの呼称に最近統一しようとしている)、日帝時代または日政時代などと呼ぶ事が知られている。
前者2つには、韓国併合の有効性、合法性を認めず、朝鮮半島に対する日本の支配を単なる軍事占領とする認識がうかがえる。
また、日本植民地時代という呼称も用いられるが、韓国併合条約、日本による朝鮮領有の合法性、有効性を示唆するものであるという認識から、近年では忌避される傾向にある。

大韓民国における日本統治時代の評価

独立後の韓国の歴史学者・学会は、日本による統治を正当化する日本側の歴史研究を「植民地史観」と呼び、これを強く批判することから出発した。
彼らの言うところの「植民地史観」に対抗して登場したのは民族史観であり、その後の歴史研究の柱となった。
そうした雰囲気もあって、日本統治時代に様々な近代化が行われたことを認めつつも、近代化の萌芽は李氏朝鮮の時代に既に存在しており、日本による統治はそれらの萌芽を破壊することで、結果的には近代化を阻害したとする近代化萌芽論が独立後に現れた。
一方、評論家・作家の金完燮や日本の保守層を代弁する人物として、拓殖大学の教授で済州島出身呉善花などは日本による統治を肯定的に評価する本を執筆している。
またソウル大学教授の李栄薫などによる、日本の統治が近代化を促進したと主張する植民地近代化論も存在する。
しかし、韓国人としては少数派である。
近年、李栄薫らは李氏朝鮮時代の資料を調査し李氏朝鮮時代の末期に朝鮮経済が急速に崩壊したことを主張し、近代化萌芽論を強く否定している。
また国外的には、ハーバード大学の朝鮮史教授カーター・J・エッカートも韓国での萌芽論は「論理ではなく日本を弾劾することが目的のもの」としており、近代化萌芽論を強く否定した。
韓国の資本主義は日本の植民地化の中で生まれ、特に戦後の韓国の資本主義や工業化は日本の近代化政策を模したものという研究結果を出している。
同時に彼は日本統治そのものについては朴正煕政権との類似性などをあげ、軍事独裁の一形態であり、韓国の資本家に独裁政権への依存体質をもたらす原因になったとも述べている。

日本統治下の朝鮮を植民地と呼ぶかどうかについての論争

植民地という呼称は、新規の領土を旧来の領土に比して特殊な政治制度の下におき政治的従属状態においているものを呼ぶことが多い。
現実例から抽出されたモデルに現実に用いられた呼称を適用することからはじまったが、先行モデルを中心に価値判断を排除すべく概念規定されつつある。
これは先行する事実をモデルにしないかぎり、名称をつけられず、議論も不可能であるためである。

ただし、欧米による先行のモデルとの差異を論じるべく日本型植民地支配がどのようなものであったかについては継続して議論が戦わされている。
のみならず「日本の統治政策は同時代に欧米諸国の行った異民族統治とは異質で、善政である」「植民地という言葉は諸外国が異民族統治に対して行った悪政に使われる言葉である」という認識から、双方を一緒に植民地という言葉で形容することへの批判がある。
この立場からは日本の朝鮮支配について「植民地」という呼称を用いるべきではないと主張されている。

朝鮮を支配していた当時の日本政府は、法的には朝鮮に対して特別の呼称(植民地、外地など)を付さなかった。
ただし公文書では植民地、外地とも使用例が見られる([10][11]を参照)。
在野の学者や思想家の間には朝鮮が植民地であるかどうかについて見解の相違があった。
憲法学者の美濃部達吉、植民政策学者の新渡戸稲造、矢内原忠雄など社会科学者は概ね植民地であると見なしていたが、歴史学者の田保橋潔や思想家の北一輝などは植民地ではないとした。
戦後の日本の政治家の発言や日朝平壌宣言のような外交文書でも朝鮮が植民地であったとする表現がある。
しかし、これを日本政府の公式見解とするかどうかには議論がある(日本の戦争謝罪発言一覧も参照)。

歴史認識の比較

韓国併合史について、以下のような歴史認識の相違がある。
(なお、以下に示す「保守派」と「革新派」は、日本のマスコミなどでそのように表記されるグループの名称を使用したものであり、定義通りの保守、革新を表すものではない。)

[English Translation]