吉野太夫 (Yoshino Tayu (a courtesan of the highest rank))

二代目吉野太夫(よしのたゆう、慶長11年3月3日 (旧暦)(1606年4月10日) - 寛永20年8月25日 (旧暦)(1643年10月7日)) は嶋原(後に嶋原に移転)の太夫で本名は松田徳子、生まれたのは京都の方広寺近くと伝えられる。

実父はもと西国の武士であったとも。

六条三筋町「七人衆」の筆頭。
また夕霧太夫、高尾太夫とともに寛永三名妓といわれる。

彼女の命日は季語一覧として俳句の季語にもある。

幼少のころに禿(かむろ、遊女の世話をする少女)として林家に抱えられ、禿名は林弥(りんや)といった。
14歳で太夫になる。
和歌、連歌、俳諧に優れていて、琴、琵琶、笙が巧みであり、さらに書道、茶道、香道、華道、貝合わせ、囲碁、双六を極めたという。

才色兼備を称えられ国内のみならず、遠くは明国にまで名を知れ渡らせた。
馴染み客には後陽成天皇の皇子で近衛信尹の養子である関白近衛信尋や、商人で、当時の文化人の一人である灰屋紹益がいた。
寛永8年(1631年)退廓・紹益と結婚。
時に26歳。

寛永20年に死去、38歳であった。

彼女は日乾上人に帰依しており、鷹峯(京都市北区 (京都市))にある常照寺 (京都市)に朱門を寄進したといわれる。
太夫自身の墓もここにある。
彼女をしのんで毎年4月第3日曜日に花供養が行われ、嶋原から太夫が参拝し訪問客に花を添えている。

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