大来皇女 (Oku no Himemiko)

大来皇女(おおくのひめみこ、大伯皇女とも 661年2月12日(斉明天皇7年1月8日 (旧暦)) - 702年1月29日(大宝 (日本)元年12月27日 (旧暦)))は、天武天皇皇女。
母は天智天皇皇女の大田皇女(持統天皇の同母姉にあたる)。
斎宮。
大津皇子の同母姉。

生涯
斉明天皇7年(661年)に、筑紫に向かう途中の、天智天皇一行の乗った船が、大伯の海の上を通過している時に誕生した。
『日本書紀』に、天智天皇6年(667年)の2月27日に斉明天皇と間人皇女を小市岡上陵に合葬し、大田皇女をこの陵の前の墓に埋葬したという記述がある。
そのため、667年の2月27日以前には、大来皇女と大津皇子の母の大田皇女は死去したと思われる。

大来皇女は天武天皇3年(674年)、10月9日に、父の天武天皇によって斎宮制度が確立されてからの初代斎王として、伊勢斎宮に下向した。
翌年の天武天皇4年(675年)の2月13日には、十市皇女と阿陪皇女(後の元明天皇)が伊勢神宮に参詣した。
朱鳥元年(686年)、4月27日、多紀皇女・山背姫王・石川夫人が伊勢神宮に遣わされた。
同年の10月3日に、大津皇子が謀反人として死を賜った後、11月17日に退下し、都に帰った。
大宝 (日本)元年(701年)、12月27日に死去。

『万葉集』に謀反人として倒れた同母弟の大津皇子を想う歌を6首残している。
三重県名張市の夏見廃寺(国史跡)は、「大来皇女が発願し、725年に完成した昌福寺(『薬師寺縁起』)」とされている。

大来皇女作の歌

万葉集巻第2 105~106番(大津皇子がひそかに伊勢神宮に下向してきた時に詠んだ歌)
わが背子を大和に遣るとさ夜深けて 暁(あかとき)露にわが立ち濡れし吾勢祜乎 倭邊遣登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之
二人行けど行き過ぎ難き秋山を いかにか君が独り越ゆらむ二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武

万葉集巻第2 163~164番(大津皇子薨去後、退下・帰京途上で詠んだ歌)
神風の伊勢の国にもあらましを なにしか来けむ君もあらなくに神風乃 伊勢能國尓母 有益乎 奈何可来計武 君毛不有尓
見まく欲(ほ)りわがする君もあらなくに なにしか来けむ馬疲るるに欲見 吾為君毛 不有尓 奈何可来計武 馬疲尓

万葉集巻第2 165~166番(大津皇子を二上山に移葬したときの歌)
うつそみの人にあるわれや明日よりは 二上山を弟背(いろせ)とわが見む宇都曾見乃 人尓有吾哉 從明日者 二上山乎 弟世登吾將見
磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど 見すべき君がありといわなくに礒之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓

血縁

父:天武天皇
母:大田皇女(父:天智天皇)
同母弟:大津皇子

[English Translation]