福羽美静 (FUKUBA Bisei)

福羽 美静(ふくば びせい、「よししず」とも天保2年7月17日 (旧暦)(1831年8月24日) - 明治40年(1907年)8月14日)は日本の武士・津和野藩士、国学者、歌人。
通称は文三郎、号は木園、硯堂。
子爵。
貴族院議員。

経歴

津和野藩士福羽美質の長男として生まれる。
嘉永2年(1849年)、19歳で藩校養老館に入学して漢学や山鹿流兵学を学ぶ。
津和野藩主亀井茲監の命を受け、嘉永6年(1853年)京都に上り、大国隆正の門に入る。
この際に国学思想の影響を受けて尊皇攘夷論に関心を抱き、次第に意を国事に用いるようになったとされている。
安政4年(1857年)に帰藩し、養老館で教授を務める。
文久3年(1863年)、御所に召され孝明天皇に近侍する。
八月十八日の政変に際しては、七卿落ちと共に西下し帰藩、藩主亀井に認められ、藩政刷新に尽くすところがあった。

慶応2年(1866年)の第二次長州征伐時には、藩の方針を長州藩寄りにまとめた。
そして明治元年(1868年)、茲監が明治維新政府神祇官の要職につくに及び、微士神祇事務局権判事となり、主に神祇制度の復興確立に尽力した。

明治2年(1869年)には明治天皇の侍講、同年大学御用掛、明治3年(1870年)に神祇大福、明治5年(1872年)に教部大輔となる。

「外国の長所を取り入れるべきだ」との意見に反対意見が続出したため免官され、宮内省歌道文学御用掛となる。

明治9年(1876年)に国憲調査委員、明治12年(1879年)に東京学士会会員、明治13年(1880年)に文部省御用掛、明治18年(1885年)に元老院議官となり、明治20年(1887年)には子爵を授爵した。

この間、明治13年(1880年)から翌年までお茶の水女子大学摂理(校長)を務めた。

明治23年(1890年)、貴族院 (日本)議員に選出される。
同年、公職を退いて隠居生活に入った。

園芸・造園家・宮中顧問官の 福羽逸人 農学博士(子爵)は、養嗣子にあたる。

エピソード

幼少の頃に軽業(かるわざ、曲芸のこと)師の真似をしようとして綱渡りをし、この際誤って転落した。

腰部の関節を挫傷した為に身長が伸びなかった。
大人になっても5尺(約151.5cm)に満たなかったといわれる。
しかし、父の友人から諭され、また荒木田守武の和歌に感銘を受けるなどして勉学に励んだ。

明治天皇が京都より東京へ行幸(東京奠都)する際、伊勢神宮より早馬が到着して「神宮の鳥居が倒れた、御神意は天皇の行幸に反対なのでは」という連絡を受けた。
福羽は「人が作ったものなら倒れるのも当然じゃないか」と相手にしなかった。
他の国学者、神祇官僚とは一線を画した福羽の合理的精神の一端と言われる。

[English Translation]