ルイス・フロイス (Luis Frois)

ルイス・フロイス(Luis Frois, 1532年 - 1597年7月8日)は、リスボン生まれのポルトガル人。
イエズス会員でカトリック教会の司祭、宣教師。
『フロイス日本史』を執筆。

生涯

1532年に誕生。
1548年、16歳でイエズス会に入会した。
同年、当時のインド経営の中心地であったゴア州へ赴き、そこで養成を受ける。
同地において日本宣教へ向かう直前のフランシスコ・ザビエルと日本人協力者ヤジロウに出会う。
このことがその後の彼の人生を運命付けることになる。
1561年にゴアで司祭に叙階され、語学と文筆の才能を高く評価されて各宣教地からの通信を扱う仕事に従事した。

1563年、31才で横瀬浦(現在の長崎県西海市北部の港)に上陸して念願だった日本での布教活動を開始。
日本語を学んだ後、1564年に平戸から京都に向かった。
1565年1月31日に京都入りを果たした。
しかし、保護者と頼んだ将軍足利義輝と幕府権力の脆弱性に失望。
三好党らによる戦乱などで困難を窮めながらも京都地区の布教責任者として奮闘した。極める

1569年、入京した新しい中原の覇者織田信長と二条城の建築現場で初めて対面。
既存の仏教界のあり方に信長が辟易していたこともあり、フロイスはその信任を獲得して畿内での布教を許可された。
グネッキ・ソルディ・オルガンティノなどと共に布教活動を行い多くの信徒を得た。
その著作において信長は異教徒ながら終始好意的に描かれている。
(フロイスの著作には『信長公記』などからうかがえない記述も多く、日本史における重要な資料の1つになっている)。

その後は九州において活躍していたが、1580年巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの来日に際しては通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁している。
1583年、時の総長の命令で宣教の第一線を離れ、日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念するよう命じられる。
以後彼はこの事業に精魂を傾け、その傍ら全国をめぐって見聞を広めた。
この記録が後に『フロイス日本史』とよばれることになる。

豊臣秀吉は最初は信長の対イエズス会政策を継承していたが、やがてその勢力拡大に危機感を抱くようになり、1587年6月19日バテレン追放令を出すに至った。
フロイスは畿内を去って加津佐を経たのち長崎に落ち着いた。

1590年、帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、フロイスは同行して聚楽第で秀吉と会見した。
1592年、ヴァリニャーノとともに一時マカオに渡ったが、1595年長崎に戻り、1597年には『二十六聖人の殉教記録』を文筆活動の最後に残し、7月8日没した。
享年65。
フロイスは日本におけるキリスト教宣教の栄光と悲劇、発展と斜陽を直接目撃し、その貴重な記録を残すことになった。

著作

早くから文筆の才を注目されていたフロイスは、毎年の『イエズス会日本通信』や『日欧文化比較論(ヨーロッパ文化と日本文化)』を含め多くの著作を残しており、特に有名なのは『日本史』(Historia de Iapam)である。
この本の記述は、1549年のサビエルの来日に始まり、1593年で終わっている。

『日本史』はイエズス会の日本宣教の記録であり、かつ教化目的でヨーロッパ人の読者向けに出版されることを念頭において書かれた著作である。
しかし、同時代史として、フロイス自身の目で見た京都や堺市、九州の諸都市の様子から、信長、秀吉など多くの戦国の武将たちの客観的かつ詳細な記述、各地の戦乱の詳細な記録などを含み、戦国時代 (日本)の様子を知る貴重な資料となっている。
またローマ字で表記されているため、当時の氏名や地名の読みなどもここから明らかになっている。

『日本史』の存在は古くから知られていたが、著作そのものは長きにわたって行方不明であった。
その後の調査で、聖ポール天主堂跡の文書館にあった原稿から18世紀に写本がとられたが、スペイン・ポルトガルで散逸したこと、一方原稿は19世紀、聖堂の火災に伴い焼失したことがわかった。
19世紀後半~20世紀前半にかけて各地で写本が発見され、不完全ではあるもののフロイスのこの大作が復元されることとなった。

『日本史』の構成

『日本史』は以下のような構成によって成り立っていたことが研究によってわかっている。

序文
日本六十六国誌 - 未発見
日本総論 - 目次のみ現存
第一部 - 1549年~1578年の記録
第二部 - 1578年~1589年の記録
第三部 - 1590年~1593年の記録

[English Translation]