一条実秋 (ICHIJO Saneaki)

一条 実秋(いちじょう さねあき・清水谷 実秋(しみずだに さねあき)、? - 応永27年4月21日_(旧暦)(1420年6月2日))は、室町時代の公卿。
清水谷家の事実上の初代とされている。
父は権中納言一条公勝。

応永15年(1408年)に正四位下に叙せられて右近衛中将から参議に転じる。
翌年には土佐国国司を兼ねる。(同20年まで)
応永17年(1410年)には従三位、その翌年には正三位となる。

応永21年(1414年)、備前国権守を兼ねる。
翌年兼職を辞して従二位権中納言となる。
応永26年(1419年)に権中納言を辞する。
翌年に権大納言となるがその年に死去した。

同じ西園寺家庶流の清水谷家が断絶した時に実秋がその所領を継承したが、その際に「清水谷」の家号を一時期用いた。
実秋の子である清水谷公知は同じ家名の摂関家と区別するためにかつて父が用いた「清水谷」をそのまま家号として常用したため、子孫はそのまま清水谷家と呼ばれるようになった。
公知の子清水谷実久は権大納言にまで昇ったが、橋本家から迎えた養子の清水谷公松は若くして没した。
清水谷家は断絶した。
同家の再興は江戸時代に入ってからの事になる。

[English Translation]