一条経通 (ICHIJO Tsunemichi)

一条 経通(いちじょう つねみち、文保元年(1317年) - 貞治4年/正平 (日本)20年3月10日 (旧暦)(1365年4月1日)は、鎌倉時代末期から南北朝時代 (日本)にかけての公卿である。
1336年の南北分裂後は北朝 (日本)側に属し、北朝第2代光明天皇の下で、建武 (日本)5年(暦応改元前、1338年)から暦応5年(康永改元前、1342年)まで関白を務めた。
同時に藤氏長者となった。
従一位。
名は、経道と表記されることもある。

生涯

父は、関白一条内経、母は、右大臣西園寺公顕の娘である。
元亨元年(1321年)12月15日 (旧暦)、5歳のときに元服し、正五位下に叙せられる。
正中 (元号)2年(1325年)に父が亡くなると、一条家の当主となる。
その後も順調に官位をすすめる(後掲)。
元徳3年/元弘元年(1331年)、光厳天皇の即位を祝して正二位に叙せられるが、元弘3年/正慶2年(1333年)、後醍醐天皇が隠岐国から帰京し、光厳天皇の即位は無効とされた。
その結果、光厳天皇の下でなされた正二位への昇叙も取り消された。
ただし、翌年正月、あらためて正二位へ昇叙され、その翌年には内大臣となった。
後醍醐天皇の親政による建武の新政は、武士層の反感を招き、建武3年(1336年)に足利尊氏軍が京都を制圧することで瓦解した。
8月15日 (旧暦)には光明天皇が立てられる。
両統迭立の伝統に従い、持明院統の光明天皇は、大覚寺統である後醍醐天皇の皇子成良親王を皇太子とした。
一条経通は、当時11歳の皇太子成良親王の東宮傅に任ぜられた。
その後、左大臣、関白を歴任した。

東福寺との関係が深く、土地の寄進のほか、関白辞任後の貞和3年(1347年)6月には、焼失していた本堂(仏殿)再建の上棟式を行った。

貞治4年/正平20年(1365年)死去、享年49。
法名は、父の法名(芬陀利花院)から、後芬陀利花院とされた。

妻子

北政所は、洞院公賢の娘、綸子である。
綸子は、長男一条内嗣を生んだ。
しかし、内嗣は南朝 (日本)側についたため廃嫡、それに代わり、次男房経を嫡子とした。
ところが房経は、経通が死去した翌年に嗣子を残さず早世した。
そのため、関白二条良基の三男一条経嗣が、経通の養嗣子となり、一条家を継いだ。

一条内嗣 (1335/1336-?) - 権大納言正二位

房経 (1347/1348-1366) - 権大納言正二位

一条経嗣 (1358-1418) - 養子。
関白従一位

慈済 - 僧正。
延暦寺。
天台座主(第142世。在任 1377-1381)。

照厳 - 権僧正。
東寺。
随心院。

官位履歴

官位と位階の履歴は以下の通り。
年齢は数え年、月日は旧暦。
西暦年は、分かりやすくするため、旧暦と新暦のずれを考慮せず、単純に置き換えただけである。

[English Translation]