三好之長 (MIYOSHI Yukinaga)

三好 之長(みよし ゆきなが)は、戦国時代 (日本)の武将。
本姓は源氏。
家系は清和源氏の一家系・河内源氏の傍系・甲斐源氏の流れを汲む小笠原氏の庶家にあたる。
諱の之長は、阿波国の守護・細川成之の偏諱を受けたものである。

家系

室町幕府の管領を代々務めた名族細川氏の家臣。
父は三好長之。
子に三好長秀。
一説に長秀の子・三好元長も之長の子とされる。
三好長慶の曽祖父(または祖父)にあたり、三好氏が畿内に進出するきっかけを作り出した名将である。

生涯

長禄2年(1458年)、三好長之の子として生まれる。

細川氏の家臣として仕え、応仁の乱で初陣を飾り、以来、数多くの戦いに参加している。
細川氏の全盛期を築いた細川政元の後継者問題においては養子の細川澄元を支持した。
政元が細川澄之派の重臣によって暗殺されると、澄之を打倒し、澄元と共に将軍・足利義澄を擁立して権勢を掌握した。

しかし政元のもう一人の養子である細川高国や大内義興との権力争いに敗れ、阿波国に逃亡することを余儀なくされている。
永正6年(1509年)から高国・義興と戦って京都奪還を目指したが敗れ(如意ケ嶽の戦い)、子の三好長秀を失った。

永正8年(1511年)、高国・義興と決戦を挑んだが、敗れて阿波国に撤退した(船岡山の戦い)。
永正15年(1518年)、大内義興が周防に帰国したのを見て、永正16年(1519年)10月から摂津国の国人を扇動して高国軍を破った。
さらに永正17年(1520年)1月には山城で土一揆によって生じた洛中の混乱に乗じて高国を追放し、一時、京の制圧に成功した。

しかし5月、体制を立て直した高国の反撃に遭い、京都等持院で戦った。
多勢に無勢のため敗れ、捕らえられた。
そして5月11日、知恩寺において斬首された。
享年63。
之長の2人の子息も、翌日に死罪に処された。

人物・逸話

等持院の戦いで逃走しているとき、肥満してたため逃げ切れず捕らえられたという。
高国は之長を用いようとしたが、かつて之長が殺した細川尚春の遺族が処刑を要求したため、高国も思い直したとされる。
ちなみに之長が処刑された5月11日は、前年に之長が尚春を殺した日であった。

之長は名将だったが横暴な一面があったために人望が無かった。
処刑されたとき、聾盲記において以下のように記されている。
「合戦には三好と申して大強のものなれども、天罰にてかくのごとし。」
「一時に滅するなり……いまの三好は、大悪の大出(最高)なるものなり。」
「皆の人々悦喜せざるはなし」

無念の最期を遂げた之長だが、彼の畿内進出は、のちの元長・長慶らによって覇権奪取・三好家の全盛期を築き上げる基礎となった。

[English Translation]