三好義継 (MIYOSHI Yoshitsugu)

三好 義継(みよし よしつぐ)は、河内国の戦国大名。
三好氏本家の事実上、最後の当主である。

家督相続

天文 (元号)20年(1551年)、三好長慶の弟・十河一存の子として生まれる(生年は天文18年(1549年)ともいわれる)。
はじめ十河 重存(そごう しげまさ)と名乗っていたが、永禄4年(1561年)に父が急死すると、伯父の三好長慶に養育された。

永禄6年(1563年)に長慶の世子であった三好義興が早世したため、長慶の養子として迎えられ、三好姓に改めた。
永禄7年(1564年)7月に長慶が死去すると、三好三人衆の支持を受けて家督を継ぎ、三好家の当主となる(一説に、長慶は存命中の6月に家督を譲って隠居していたとされる)。

傀儡の当主

家督相続時、既に重臣の松永久秀や三好三人衆が主家を凌駕する実力を保持していて、義継は彼らの傀儡に過ぎなかった。

永禄8年(1565年)5月1日、室町幕府第13代将軍・足利義輝から「義」の字を賜って義重と改名し、さらに義輝の奏請により左京大夫に任官された。
しかし5月19日、松永久秀や三好三人衆に担ぎ出されて二条御所を襲撃し、足利義輝の暗殺に加担し、さらにキリスト教宣教師を京都から追放した(永禄の変)。

その後、三好三人衆と松永久秀が不仲になると、三人衆によって傀儡の当主として擁立され、久秀と戦うことになる。
しかし、やがて三人衆と不仲になって一時拘禁されたが、永禄10年(1567年)2月16日、三人衆のもとから逃れて久秀と手を結び、奈良で三人衆と戦い、10月10日の戦いで東大寺を焼いてしまった(東大寺大仏殿の戦い)。

織田信長との戦い

永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭(義輝の弟)を擁立して上洛してくると、これに降って、河内国北半国と若江城の領有を安堵された。
永禄12年(1569年)3月、信長の仲介により第15代将軍・足利義昭の妹を娶る。

その後しばらくは織田氏の家臣として三好三人衆などの畿内の反信長勢力と戦っていたが(野田城・福島城の戦い)、元亀2年(1571年)頃から久秀と手を結んで信長に反逆し、信長包囲網の一角に加わった。
元亀3年(1572年)には織田方の畠山昭高や細川昭元(いずれも信長の娘婿)と河内・摂津国方面で戦い、勝利している。

しかし元亀4年(1573年)4月、信長最大の強敵であった武田信玄が病死すると、織田軍の反攻が始まり、7月には義兄にあたる足利義昭が信長によって京都から追放され、室町幕府は滅んだ。

最期

追放された義兄・足利義昭を若江において義継は庇護した。
このため、信長の怒りを買い、天正元年(1573年)11月、信長の命を受けた佐久間信盛率いる織田軍に若江城を攻められ(義昭は直前に堺へ脱出)、若江三人衆と呼ばれた重臣らの裏切りにもあって若江城は落城し、妻子とともに自害して果てた。
享年23。
これによって戦国大名としての三好家の嫡流は断絶した。

[English Translation]