中原師員 (NAKAHARA Morokazu)

中原 師員(なかはら もろかず、元暦元年(1184年) - 建長3年6月22日 (旧暦)(1251年7月12日))は鎌倉時代の人物。
大江広元(中原広元)を出した明経道中原氏の庶流貞親流で、師員の父師茂は中原親能(藤原親能)、広元(大江広元)兄弟の従兄弟にあたる。
その縁で北条泰時の時代に鎌倉に下向し、初代評定衆の一員に加わったものとみられる。

1231年(寛喜3年)春の除目で大外記補任、その直後の同年5月に摂津守に任官している。
1236年(嘉禎2年)12月26日条に「去る十八日の除目の聞書到着す。武州(北条泰時)左京権大夫を兼ね給う。師員主計の頭に任ず」とある。
連署執権北条時房死後には政所下文に北条泰時の次に署判を加えている。

中原師員は将軍藤原頼経の側近でもあったが、その立場は、京と鎌倉、評定衆の評定と政所、恩沢奉行としては執権と将軍の結節点となっており、執権対将軍という中では中立的な立場がそもそもの役割だったのだろう。
そのため宮騒動においても、藤原定員のように連座することも、後藤基綱のように警戒されることもなく、政権中枢であり続け、子の中原師連も宗尊親王の御所奉行、評定衆として活躍し、その家系は鎌倉時代末期には摂津氏と呼ばれて幕府中枢の事務官僚を世襲した。
その子中原師連とともに『吾妻鏡』に多数実名で登場することから、『吾妻鏡』編纂の原史料としてその日記・筆録の類が利用された可能性が高いとされている。

尚、一部では竹迫輝種とか、竹迫城を築城したとか出てくるが、この当時の「城郭」は戦時の一時的なバリケードのことであり、恒常的施設としての、後世に通じる「城」の概念は生まれていない。

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