井田武雄 (IDA Takeo)

井田 武雄(いだ たけお、嘉永4年(1851年)11月 - 昭和8年(1933年))は、日本の医師、実業家。
号は陸舟。
鳥取県西伯郡中浜村(現在の境港市)出身。

経歴

井田義枝の次男として生まれる。
慶応元年(1865年)長崎に出て長崎養生所(現・長崎大学医学部)に学び、蘭方医学を修めた

明治7年(1874年)長崎養生所を出た。
明治10年(1877年)の西南戦争に警視庁医員として従軍し功をたてる。
明治11年(1878年)海軍軍医に転じ、軍艦「鳳翔 (砲艦)」軍医として韓国に派遣され、韓国人の診療に活躍した。
帰国後海軍を辞し、養神病院長となり、明教生命保険の設立計画をした。
また、政府高官であった大隈重信、板垣退助らの後援を得て、佐々友房、柴四朗、荒尾精らと謀り、東方通商協会を設立して、本部を上海市に置き、東亜問題に画策した。

明治28年(1895年)日清戦争後の台湾の帰属問題から、台湾島民の反乱となり、日本軍の出兵、台湾占領に至る。
この折に武雄は台湾一等公医となり、台湾ペスト病院長として赴任した。
台北にあって荒尾などと調停の努力をしたが 同志荒尾の死去にあう。
また武雄自身も、日本官憲の台湾島民に対する暴挙に抗議し、却って土匪教唆として投獄されたりして、その志は断たれた。
東京に帰った武雄は明治30年(1897年)四谷病院長となった。
その経営にあたり、大正3年(1914年)幸楽病院長として診療に従事した。
昭和に入って同病院の顧問として働きながらも、東亜問題については有志と通じていたという。

住所は東京市四谷区永住町(現・新宿区四谷)となっているが、遺族の消息は不明である。

家系

井田家は上総国武射郡坂田城主井田胤徳の末裔とつたえられ、武雄は刑部大輔より25世の子孫であると称している。『実業家人名事典』より。

上杉謙信、武田勝頼、徳川秀忠等が井田家の祖先に送った書簡(手紙)を家宝として所蔵する。

資料

大正人名辞典・井田武雄 抜粋

君は嘉永四年十一月を以て鳥取縣西伯郡中浜村に生る。
嚴父義枝氏亦憂國の志士なり。
蓋君の家系を聞くに遠く葛原親王に出て、而して乃祖井田刑部大輔は實に上總國武射郡坂田の城主なりき。
是を以て元亀天正年間には、刑部の子孫は兵馬倥傯の間に奔走した。
百戰千鬪の功を樹て、武名を関東に揚げたる名門の裔なるを以て、君及嚴父の國事を憂ふるもの、蓋偶然に非ざるを知るべし、君は慶應元年、崎陽に遊學して醫術を長崎醫学校の前身たる『養生所』に研究する。
明治初年其業を卒るや、遠く加奈太政廳聘に應じ留まること三星霜にして其業更に進み、而して任滿ち歸朝する。
警視廳に醫員を拜命す、幾もなくして西南戰役に會する。
君亦醫を以て從軍し功を樹つること尠なからず、後海軍醫に轉じ軍艦鳳翔號の軍醫長として韓国に赴く。
韓人を診脈して嘖々の譽を博す。
斯くして或いは東京養神病院を起し、或いは明教生命保險會社を創立する等、醫術以外事業を創刱することその幾許なるを知らず

[English Translation]