京極持清 (KYOGOKU Mochikiyo)

京極 持清(きょうごく もちきよ、1407年(応永14年) - 1470年8月30日(文明 (日本)2年8月4日 (旧暦)))は守護大名である京極氏の室町時代中後期の当主。

1407年(応永14年)に守護大名である京極高光の子として生まれる。

1413年(応永20年)に父の京極高光が亡くなり、兄の京極持高が後を継ぐが、
持高は1439年(永享11年)に子を残さぬまま亡くなる。
薩戎記はこの後に叔父の京極高数が家督を継いだとし、西讃府史は持清が家督を継いだとしている。
いずれにせよ、高数は翌々年の1441年(嘉吉元年)6月に起こった嘉吉の乱で、征夷大将軍の足利義教と共に、赤松満祐邸でその家臣に討たれる。

室町幕府は満祐の追討軍を播磨国に発し、その間、持清は京都の警護を行う。
8月に嘉吉の徳政一揆が起こり清水坂でこれと戦っている。
その後、満祐の追討がなされ、幕府が徳政令を発する事により一揆も治まった。
12月に持清は出雲国、隠岐国、飛騨国の守護を継ぐ。

1446年(文安3年)に同じ佐々木氏一門の宗家である六角氏において家督争いが生じ、幕府の命により六角久頼を助けこれを鎮める。
後に久頼は京極氏との確執を理由に自害し、嫡子の亀寿丸(六角高頼)が後を継ぐ。

1449年(文安6年)には侍所の司へと任じられ、以降1466年(寛正7年)まで長く務める。
この間、1460年(寛政元年)には出家しており、翌々年に開いた花会では池坊専慶に立てさせた花が評判になったという。

1467年(応仁元年)に応仁の乱が起こると、細川勝元の率いる東軍に家臣で従弟の多賀高忠と共に一万余騎を率いて属し、洛中の花開院塩屋、一条大宮などで西軍と戦う。
翌年には西軍についた六角高頼と近江国で戦い、その本拠である観音寺城を落とし、
さらに翌年には六角氏が代々務めて来た近江守護職を任ぜられる。
その後も六角氏との戦いが続く中、1470年(文明 (日本)2年)に64歳で病死した。

生前は従四位上大膳大夫に任ぜられていた。
家督は、長男の京極勝秀が既に亡くなっていたため、勝秀の嫡子と考えられている孫童子丸が継ぐが、これもわずか一年で亡くなり、
その後を三男の京極政経と四男とも勝秀の子ともされる京極高清が争う。
その後政経が継ぐものの、頭角を現してきた出雲の守護代尼子経久に出雲を奪われる。
その事により更なる内紛が起こるのである。

[English Translation]