前田慶寧 (MAEDA Yoshiyasu)

前田 慶寧(まえだ よしやす)は、加賀藩の第13代藩主。
第12代藩主・前田斉泰の長男、母は第11代征夷大将軍・徳川家斉の娘・溶姫。
正室は有馬頼徳の娘・崇(霊鑑院)、継室は久我建通の娘で鷹司政通の養女・通子(顕光院)。
子に前田利嗣(長男)、威仁親王妃慰子(有栖川宮威仁親王妃)、礼(榊原政敬継室)、衍(近衛篤麿室)、貞(近衛篤麿室)などがいる。
曾孫に宣仁親王妃喜久子(慰子の孫)。
なお、子孫に内閣総理大臣経験者(近衞文麿、細川護熙)がいる。

生涯

天保元年(1830年)5月4日、加賀藩第12代藩主・前田斉泰の長男として生まれる。
幼名は犬千代、初名は利住。
母は溶姫で、慶寧は11代征夷大将軍徳川家斉の外孫にあたる。

元治元年(1864年)、父に代わって入京して京都御所の警備に当たっていたが、禁門の変で敗れて御所の警備を放棄して退京した。
このため、父の怒りを買って謹慎を命じられた。
このとき、側近の松平康正(大弐)や大野木仲三郎をはじめ、多くの側近たちが父や本多正均らの手によって処罰されている。
一説には慶寧は尊皇攘夷派と親しかったため、それを苦々しく思った父が弾圧したのだという。

慶応2年(1866年)、父から家督を譲られて藩主となったが、実権は父に牛耳られていたため、主体性はほとんど無かった。
戊辰戦争では、新政府軍に味方している。
明治7年(1874年)5月22日、父に先立って死去した。
享年45(満43歳没)。
諡号は恭敏公。

将軍継嗣計画

祖母(溶姫の母で家斉の側室)の専行院は大奥の権勢を固めようと、慶寧の伯父である征夷大将軍徳川家慶の世子徳川家定が病弱であるため、自分の孫に当たる慶寧を継嗣にしようとしたといわれている。
そのため、お美代の方は家斉の遺言書(家慶の嫡子・家定を13代将軍とし、慶寧を家定の養子として14代将軍にするという内容だった)を偽造したとまでいわれている。
しかし、家斉が死去し、老中水野忠邦の命でお美代の方は溶姫のもとへ預けられることになったためこの計画は失敗に終わった。

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