北条早雲 (HOJO Soun)

北條 早雲 / 伊勢 盛時(ほうじょう そううん / いせ もりとき)は、室町時代中後期(戦国時代 (日本)初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。
伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。

北條早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。

諱は長らく長氏(ながうじ)と伝えられてきたが、現在では盛時(もりとき)が定説となっている(出自節を参照)。
通称は新九郎(しんくろう)。
戒名は早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)。
生年は長らく永享4年(1432年)が定説とされてきたが、近年新たに康正2年(1456年)説が提唱されている。

伊勢家が北条姓を称したのは盛時の嫡男・氏綱のときであるが、通例では伊勢盛時も遡って「北条早雲」と呼ばれる。
従って、盛時の存命中に「北条早雲」の名が使われたことは無い。

出自

一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とするのが長く通説とされてきた。
しかし、実際には室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏の出自とみられる。
1950年代に発表された藤井論文以降、伊勢氏のうちで備中国に居住した支流で、備中国荏原庄(現井原市)で生まれたという説が有力となり、その後の資料検証によって備中荏原荘の半分を領する領主(300貫といわれる)であることがほぼ確定した。
室町幕府申次衆の書状と駿河国関連の書状において照らし合わせたところ、記載された史料の「伊勢新九郎盛時」なる人物が同一である事も決め手となった。
従来の説は文献の解釈の違いによるところが大きく、さらに「備中伊勢氏」説は史料が最も豊富で多岐にわたる事も出自解明に寄与した。

近年の研究で早雲の父・伊勢盛定が幕府政所執事伊勢貞親と共に八代将軍足利義政の申次衆として重要な位置にいた事も明らかになってきている。
早雲は伊勢盛定と京都伊勢氏当主で政所執事の伊勢貞国の娘との間に生まれた。
決して身分の低い素浪人ではない。

早雲は盛定の所領、備中荏原荘で生まれ、若年時はここに居住したと考えられる。
荏原荘には文明 (日本)3年(1471年)付けの「平盛時」の署名の禁制が残されている(ただし、花押が後のものとは異なる)。
さらに、備中国からは大道寺氏、内藤氏、笠原氏など、後北条氏の家臣が出ている。

幕府申次衆・奉公衆

応仁元年(1467年)応仁の乱が起こり、駿河守護今川義忠が上洛して東軍に加わった。
義忠はしばしば伊勢貞親を訪れており、その申次を早雲の父盛定が務めている。
その縁で早雲の姉(または妹)の北川殿が義忠と結婚したと考えられる。
早雲が素浪人とされていた頃は北川殿は側室であろうとされていたが、備中伊勢氏は今川氏と家格的に遜色なく、近年では正室であると見られている。
文明5年(1473年)に北川殿は嫡男龍王丸(後の今川氏親)を生んだ。

京都で早雲は将軍義政の弟の足利義視に仕えたとされるが、近年有力視される康正2年(1456年)生まれとすると、義視が将軍後継者と擬されていた時期(1464年-1467年)には10歳前後で幼すぎ、応仁元年(1467年)以降、義視は西軍に走っている。
このため、これを疑問視する見方もある。

「伊勢新九郎盛時」の名は文明13年(1481年)から文書に現れる。
文明15年(1481年)に将軍足利義尚の申次衆に任命されている。
長享元年(1487年)奉公衆となる。

京で幕府に出仕している間、早雲は建仁寺と大徳寺で禅を学んでいる。

駿河下向

文明8年(1476年)今川義忠は遠江国の塩売坂の戦いで西軍の遠江守護斯波義廉方の国人横地氏、勝間田氏の襲撃を受けて討ち死にした。
しかし、遠江国の政情は複雑で、近年の研究ではこれらの国人は東軍の斯波義良に属するものだと考察されており、義忠は同じ東軍と戦っていたことになってしまう。

残された嫡男龍王丸は幼少であり(異説あり)、このため今川氏の家臣三浦氏、朝比奈氏などが一族の小鹿範満(義忠の従兄弟)を擁立して、家中が二分される家督争いとなった。
これに堀越公方と扇谷上杉氏が介入し、それぞれ執事の上杉政憲と家宰の太田道灌を駿河国へ兵を率いて派遣させた。
範満と上杉政憲は血縁があり、また太田道灌も史料に範満の「合力」と記されている。
龍王丸派にとって情勢は不利であった。

北川殿の弟(または兄)である早雲は駿河国へ下り、調停を行い龍王丸が成人するまで範満を家督代行とすることで決着させた。
上杉政憲と太田道灌も撤兵させた(この時に道灌と会談したという話もある。
旧来の説なら、早雲と道灌は同年齢であった)。
両派は浅間神社で神水を酌み交わして和議を誓った。
家督を代行した範満が駿府城に入り、龍王丸は母北川殿と小川の法永長者(長谷川政宣)の屋敷(小川城(焼津市))に身を寄せた。

従来、この調停成功は早雲の抜群の知略による立身出世の第一歩とされるが、これは貞親・盛定の命により駿河守護家・今川氏の家督相続介入の為に下向したものであるとの説が有力となっている。

今川氏の家督争いが収まると早雲は京へ戻り、上述のとおり将軍義尚に仕えて奉公衆になっている。

この最初の駿河下向と家督争い調停については、黒田基樹は新説による早雲の推定年齢の若さ(20歳)と、事件に付いて記している『鎌倉大草紙』には早雲の名が見えないことから考えて、このエピソードの実在に疑問を呈している。

早雲の駿河下向については以下のようなエピソードが知られている。

『北条記』に見える早雲駿河下向時の一節には、大道寺重時、荒木兵庫、多目権兵衛・山中才四郎・荒川又次郎・在竹兵衛らの仲間6人と、伊勢国で神水を酌み交わして、一人が大名になったら他の者は家臣になろうと誓い合ったという、三国志の桃園の誓いのような話が残っている。

『公方両将記』には、陸奥国へ下ろうとしていた早雲は駿河国の薩埵峠で盗賊に遭い身ぐるみはがれて難渋していたところを守護の奥方の輿と出会い衣服を与えられた。
それが「叔母」の北川殿であった。
その縁で、今川氏に仕えるようになったという話になっている。
このエピソードは司馬遼太郎の小説『箱根の坂』でも使われている。

いずれも、いかにも大志を抱く素浪人にふさわしい話であり、創作であろう。

文明11年(1479年)前将軍義政は龍王丸の家督継承を認めて本領を安堵する内書を出している。
ところが、龍王丸が15歳を過ぎて成人しても範満は家督を戻そうとはしなかった。

長享元年(1487年)早雲は再び駿河国へ下り、龍王丸を補佐すると共に石脇城(焼津市)に入って同志を集めた。
同年11月、早雲は兵を起こし、駿河館を襲撃して範満とその弟小鹿孫五郎を殺した。
龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して氏親を名乗り正式に今川家当主となる。

早雲は伊豆国との国境に近い興国寺城(現沼津市)と所領を与えられた。
駿河へ留まり、今川氏の家臣となった早雲は氏親を補佐、守護代の出す「打渡状」を発行していることから駿河守護代の地位にあったとも考えられている。

この頃に早雲は伊勢家と同格である平氏一門の幕府奉公衆小笠原政清の娘(南陽院殿)と結婚し、嫡男氏綱が生まれている。

伊豆討入り

早雲が堀越公方の子足利茶々丸を襲撃して滅ぼし、伊豆国を奪った事件は、旧勢力が滅び、新興勢力が勃興する下克上の嚆矢とされ、戦国時代の幕開けとされている。
政治が腐敗した京を捨てて、関東の沃野に志を立てたように描かれてきた早雲だが、中央の政治と連動した動きを取っていることが近年になって家永遵嗣などの研究で分ってきた。

享徳の乱で関東公方足利成氏が幕府に叛き、将軍の命を受けた今川氏が鎌倉市を攻めて占領。
成氏は古河城に逃れて古河公方と呼ばれる反対勢力となり、幕府方の関東管領上杉氏と激しく戦った。
将軍義政は成氏に代る関東公方として、弟の足利政知を送るが、成氏方の力が強く、鎌倉に入ることもできず伊豆国北条に本拠に留まって堀越公方と呼ばれるようになった。
文明14年(1483年)古河公方成氏と関東管領上杉氏との和睦が成立。
堀越公方の存在は宙に浮いてしまい、伊豆一国のみを支配する存在となった。

政知には長男に茶々丸がいたが、正室の円満院との間に潤童子と清晃をもうけていた。
清晃は出家して京にいたが、政知は勢力挽回のために日野富子や管領細川政元と連絡してこの清晃を将軍に擁立しようと図っていたとの噂があったと長享元年(1487年)の大乗院尋尊の日記に残っている。
中世史の研究者の下山治久はこの計画に早雲と氏親が関与していたのではないかと述べている。

延徳3年(1491年)に政知が没すると、茶々丸は円満院とその子の潤童子を殺害して強引に跡目を継ぐという事件が起きた。

早雲は延徳3年(1491年)5月までは「伊勢新九郎」の文書が残っているが、明応3年(1494年)の史料では「早雲庵宗瑞」と法名になっており、この間に出家したようだ。
この時代の武士の出家には政治的な意味があることが多く、家永遵嗣は清晃の母の円満院の横死が理由ではないかと述べている。

明応2年(1493年)4月、管領細川政元が明応の政変を起こして将軍足利義稙を追放。
清晃を室町殿(実質上の将軍)に擁立した。
清晃は還俗して足利義澄を名乗る(後に義澄と改名)。
権力の座に就いた義遐は母と兄の敵討ちを幕府官僚の経歴を持ち、茶々丸の近隣に城を持つ早雲へ命じた。
これを受けて早雲は、同年夏か秋ごろに伊豆堀越御所の茶々丸を攻撃した。
この事件を伊豆討入りといい、東国戦国期の幕開けと評価されている。

後世の軍記物には、この伊豆討入りに際して、早雲が修善寺に湯治と称して自ら密偵となり伊豆の世情を調べたとしている。
また、「討入りは、伊豆国の兵の多くが山内上杉氏に動員され上野国の合戦に出て手薄になったのを好機とした。
早雲の手勢200人と氏親に頼んで借りた300人の合わせて500人が、10艘の船に乗って清水港を出港。
駿河湾を渡って西伊豆の海岸に上陸すると、住民は海賊の襲来と恐れて家財道具を持って山へ逃げた。
早雲の兵は一挙に堀越御所を急襲して火を放ち、茶々丸は山中に逃げ自害に追い込まれた」と書かれている。
しかし、どこまで真実か分らない。

この他「早雲は伊豆国韮山城(現伊豆の国市)を新たな居城として伊豆国の統治を始めた。
高札を立てて味方に参じれば本領を安堵すると約束し、一方で参じなければ作物を荒らして住居を破壊すると布告した。
また、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、病人を看護するなど善政を施し、茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の武士や領民はたちまち早雲に従った。
抵抗する関戸吉信の深根城(下田市)を落として皆殺しにして力を示した。
そして、それまでの煩瑣で重い税制を廃して四公六民の租税を定め領民は歓喜し、伊豆一国は30日で平定された」と言われる。

軍記物語などでは自害したと言われる茶々丸は史書においては堀越御所から逃亡しており、武田氏、関戸氏、狩野氏、土肥氏らに擁せられて早雲に数年に渡って抵抗した。
早雲は伊豆の国人を味方につけながら茶々丸方を徐々に追い込み、明応7年(1497年)に南伊豆の深根城を落として、5年かかってようやく伊豆国を平定している。

伊豆国の平定をする一方で、早雲は今川氏の武将としての活動も行っており、明応3年(1494年)頃から今川氏の兵を指揮して遠江国へ侵攻して、中遠まで制圧している。
早雲と氏親は連携して領国を拡大していく。

小田原城奪取

二本の大きな杉の木を鼠が根本から食い倒し、やがて鼠は虎に変じる。
という霊夢を早雲が見たという話が『北条記』に書かれている。
二本の杉とは関東管領の山内上杉氏と扇谷上杉氏。
鼠とは子の年生まれの早雲のことである。

明応3年(1494年)関東では山内上杉氏と扇谷上杉氏の抗争(長享の乱)が再燃し、上杉定正は早雲に援軍を依頼。
定正と早雲は荒川 (関東)で上杉顕定の軍と対峙するが、定正が落馬して死去したことにより、早雲は兵を返した。

扇谷上杉氏は相模国の三浦氏と大森氏を支柱としていたが、この年に、それぞれの当主である扇谷上杉定正、三浦時高、大森氏頼の三人が死去するという不運に見舞われている。

早雲は茶々丸の討伐・捜索を大義名分として、明応4年(1495年)に甲斐国に攻め込み、守護武田信縄と戦っている。
同年9月、相模国小田原市の大森藤頼を討ち小田原城を奪取した。

『北条記』によれば、早雲は大森藤頼にたびたび進物を贈るようになり、最初は警戒していた藤頼も心を許して早雲と親しく歓談するようになった。
ある日、早雲は箱根山での鹿狩りのために領内に勢子を入れさせて欲しいと願い、藤頼は快く許した。
早雲は屈強の兵を勢子に仕立てて箱根山に入れる。
その夜、千頭の牛の角に松明を灯した早雲の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放つ。
数万の兵が攻め寄せてきたと、おびえた小田原城は大混乱になり、藤頼は命からがら逃げ出して、早雲は易々と小田原城を手に入れたという。
典型的な城盗りの物語で、似たような話は織田信秀の那古野城奪取、尼子経久の月山富田城奪取にもあり、どこまで真実か分らない。

この小田原城奪取は明応4年(1495年)9月とされているが、史料によって年月が異なる。
黒田基樹は明応5年(1496年)に山内上杉氏が小田原城と思われる要害を攻撃し、扇谷上杉方の守備側の名に大森藤頼と早雲の弟伊勢弥次郎の名が山内上杉顕定の書状にあったことを根拠に年次に疑問を呈し、それ以降のことではないかとしている。
また、明応10年3月28日_(旧暦)(文亀元年/1501年)に早雲が小田原城下にあった伊豆山神社の所有地を自領の1ヶ村と交換した文書が残されており、この時点では早雲が小田原城を既に領有していたとみられている。

小田原城は後に後北条氏の本城となるが、早雲は終生、伊豆国の韮山城を居城としている。

小田原城奪取など、早雲の一連の行動は、茶々丸討伐という目的だけでなく、自らの勢力範囲を拡大しようとする意図もあったと見られていた。
だが近年の研究では義澄-細川政元-今川氏親-早雲のラインと、足利義稙-大内政弘-足利茶々丸-武田信虎のライン、即ち明応の政変による対立構図の中での軍事行動であることが明らかになってきている。
小田原城奪取も、藤頼が義稙ラインの山内上杉氏に寝返った為のものと考えられている。
最終的に、明応8年(1498年)、早雲は甲斐国で茶々丸を捕捉し、殺害することに成功した。
討った場所については、伊豆国の深根城とする説も有力である。

今川氏の武将としての活動も続き、文亀年間(1501年-1504年)には三河国にまで進んでいる。
『柳営秘鑑』によると文亀元年(1501年)9月、岩津城下にて松平長親(徳川家康の先祖)と戦って敗北し、三河侵攻は失敗に終わっている。
松平方の先陣の酒井氏、本多氏、大久保氏の働きがあったという。
ただし、徳川実紀では、永正3年(1506年)8月20日のこととされている。

相模平定

その後、早雲は相模方面へ本格的に転進し、関東南部の制圧に乗り出したが、茶々丸討伐の名目を失ったため、この後の軍事行動には多大な困難が伴った。
更に、伊豆・西相模を失った山内上杉顕定による離間策により氏親・早雲は義澄・政元と断絶されてしまう。
この事によって政治的な立場が弱くなった。

それでも早雲は今川氏の援助を受けながら、今度は義稙-大内ラインに与し、徐々に相模に勢力を拡大していった。
こうした関東進出の大きな画期となったのは、永正元(1504年)8月の武蔵国立河原の戦いであり、上杉朝良に味方した早雲は、今川氏親とともに出陣して山内上杉顕定に勝利した。

この敗戦後に山内上杉顕定は越後上杉氏の来援を得て反撃に出る。
相模国へ乱入して、扇谷上杉氏の諸城を攻略。
翌永正2年(1505年)、河越城に追い込まれた上杉朝良は降伏した。
これにより、早雲は山内上杉氏、扇谷上杉氏の両上杉と敵対することになる。

(1509年)以降は早雲の今川氏の武将としての活動はほとんど見られなくなり、早雲は相模進出に集中する。
永正3年(1506年)に相模国で検地を初めて実施して支配の強化を図っている。

永正4年(1505年)、管領細川政元が暗殺される。
同年、顕定の弟で越後守護上杉房能が守護代の長尾為景(上杉謙信の父)に殺される事件が起きた。
早雲は為景と結んで顕定を牽制した。

永正6年(1509年)7月、顕定は大軍を率いて越後国へ出陣。
同年8月、この隙を突いて早雲は扇谷上杉朝良の本拠江戸城に迫った。
上野国に出陣していた朝良は兵を返して反撃に出て、翌永正7年(1510年)まで早雲と武蔵国、相模国で戦った。
早雲は権現山城(横浜市)の上田政盛を扇谷上杉氏から離反させ攻勢に出るが、同年7月になって山内上杉氏と扇谷上杉氏が反撃に出て、権現山城は落城。
三浦義同(道寸)が早雲方の住吉要害(平塚市)を攻略して小田原城まで迫る。
早雲は手痛い敗北を喫し、扇谷上杉氏との和睦をして切り抜けた。
一方、同年6月には越後国に出陣していた顕定は長尾為景の逆襲を受けて敗死してしまっている。

三浦氏は相模国の名族で源頼朝の挙兵に参じ、鎌倉幕府創立の功臣として大きな勢力を有していたが、嫡流は執権の北条氏に宝治合戦で滅ぼされている。
しかし、傍流は相模国の豪族として続き、相模国で大きな力を持っていた(相模三浦氏)。

この頃の三浦氏は扇谷上杉氏に属し、同氏の出身で当主の三浦義同(道寸)が相模中央部の岡崎城 (相模国)(現伊勢原市)を本拠とし、三浦半島の三崎城(現三浦市(軍記物などには新井城とある)を子の三浦義意が守っていた。
早雲の相模平定のためには、どうしても三浦氏を滅ぼさねばならなかった。

敗戦から体勢を立て直した早雲は、永正9年(1512年)8月に岡崎城を攻略し、三浦義同を住吉城(逗子市)に敗走させた。
勢いに乗って住吉城も落とし、義同は義意の守る三崎城に逃げ込んだ。
早雲は鎌倉に入り、相模の支配権をほぼ掌握する。
上杉朝興が江戸城から救援に駆けつけるが、早雲はこれを撃破する。
さらに三浦氏を攻略するため、同年10月、鎌倉に玉縄城を築いた。

義同はしばしば兵を繰り出して早雲と戦火を交えるが、次第に圧迫され三浦半島に封じ込められてしまった。
扇谷上杉氏も救援の兵を送るがことごとく撃退された。

永正13年(1516年)7月、扇谷上杉朝興が三浦氏救援のため玉縄城を攻めるが早雲はこれを打ち破り、義同・義意父子の篭る三崎城に攻め寄せた。
激戦の末に義同・義意父子は討ち死にする。
名族三浦氏は滅び、早雲は相模全域を平定した。

その後、早雲は上総国の小弓公方足利義明と武田氏を支援して、房総半島に渡り、翌永正14年(1517年)まで転戦している。

永正15年(1518年)、家督を嫡男氏綱に譲り、翌永正16年(1519年)に死去した。
享年64または享年88。

早雲は、領国支配の強化を積極的に進めた最初期の大名であり、かつ伊豆一国を支配しながら室町幕府から正式な伊豆の守護として任じられなかった。
その点から、最初の戦国大名とも呼ばれている(当然、守護大名ではない)。
『早雲寺殿廿一箇条』(そううんじどのにじゅういちかじょう)という家法を定め、これは分国法の祖形となった。
永正3年(1506年)に小田原周辺で指出検地(在地領主に土地面積・年貢量を申告させる検地)を実施しているが、これは、戦国大名による検地として最古の事例とされている。

また、死の前年から虎の印判状を用いるようになっている。

早雲の後を継いだ氏綱は北条氏(後北条氏)を称して武蔵国へ領国を拡大。
以後、北条氏康、北条氏政、北条氏直と勢力を伸ばし、五代に渡って関東に覇を唱えることになる。

早雲の出自と生年の論争

既に老いの境に入った一介の伊勢国の浪人 (武士)が、妹が守護の愛妾となっていたのを頼りに駿河へ下って身を興し、後に関東を切り取る一代の梟雄北条早雲となる、というストーリーが従来小説などでよく描かれていた。

江戸時代前期までは後北条氏は名門伊勢氏の出と考えられていた様子だが、江戸時代中期以降、『太閤記』の影響で戦国時代を身分の低い者が実力で身を興す「下克上の時代」ととらえる史観が民衆の願望もあいまって形成され,明治時代になって定着し、戦後まで続いた。
その下克上の代表として北条早雲、斎藤道三、豊臣秀吉が語られ、早雲は身分の低い素浪人とすることが通説となった。

出自に関する論争

早雲の出自については長年明らかにならず、主なものに、大和国在原説、山城国宇治説、伊勢説、京都説、備中説があった。

大和在原説と山城宇治説は『北条五代記』に異説として紹介されたもので有力視はされなかった。
伊勢説は『北条記』『相州兵乱記』に書かれており、早雲が信濃国守護小笠原定基に宛てた書状で「伊勢の関氏と同族である」と書いていたことを根拠に1901年に藤井継平が主張し、田中義成がこれを支持した。
これに対して渡辺世祐は『寛政重修諸家譜』などにある幕府政所執事の京都伊勢氏の出身で、伊勢貞親の弟伊勢貞藤またはその子供であろうとする京都説を主張した。
一般には伊勢説が定着して上記のような「伊勢素浪人」という早雲像ができあがる。
一方、研究者の間では京都説が有力視されていた。

備中説は『今川記』および『太閤記』に書かれており、井原市法泉寺の古文書を調査した藤井駿が1956年に早雲を備中伊勢氏で将軍足利義尚の側近であった「伊勢新九郎盛時」とする論文を発表した。
1980年前後に奥野高広、今谷明、小和田哲男が史料調査の結果として「伊勢新九郎盛時」を後の北条早雲とする論文を発表した。
その後、有効な反論も出ず、家永遵嗣などの研究の進展もあって、ほぼ定説化した。
江戸時代前期成立の『今川記』に戻った訳で「本卦返り」と呼ばれている。
早雲は氏素性のない素浪人ではなく、将軍に直接仕える名門の出であったことになる。

生年に関する論争

早雲の年齢については江戸時代以来、享年88(永享4年(1432年)生)とされていた。
当時としては非常に長命である。
これだと、駿河に下向して興国寺城主となり、長男氏綱が生まれた時点で数え年で56歳、伊豆討ち入りの時点で62歳となる。
江戸時代前期の史料で姉とされる北川殿が今川義忠と結婚した応仁元年(1467年)で早雲は36歳になっており、姉だと当時の女性としては晩婚に過ぎる。
そこで歳の離れた妹とされていた。

早雲は小説家や評論家から「大器晩成」の典型としてよく取り上げられた。
しかしながら、早雲が歴史上に登場するのが50歳近く、本格的に活動するのが60歳を過ぎてから、最晩年の80歳をすぎても自ら兵を率いて戦っており、いかに矍鑠としていても少々異様であり、疑問に感じる者もいた。
(下山治久も著書で疑問を述べている)

近年になって黒田基樹は享年88は江戸時代中期以降の系図類から出たものであり江戸時代前期の史料には存在しないことを明らかにした。
永享4年(1432年)生れだと近年有力視された幕臣伊勢盛時の父盛定の活動時期とも伊勢貞親(盛時の母の兄弟)の甥という系譜関係も成り立たなくなる。
これは長年、早雲と思われた伊勢貞藤の生年と混同されてしまった結果であるとし、江戸時代前期成立の軍記物で「子の年」生まれと記載されている。
姉の北川殿の結婚時期と考え合わせて、24歳若い康正2年(1456年)生まれであろうとした。
これだと、姉の北川殿の結婚の時期に11歳頃、駿河下向時点で32歳、享年は64歳となり、当時の人間の活動としては妥当な年齢であることから、有力視されるようになった。

しかしながら、この説については未だ検討中の段階で、これを採らず享年88説を採る研究者もいる。
最近の小説や評論の類それにインターネットのホームページも早雲を「大器晩成」の典型として享年88説を採っているものが多く、必ずしも一般に定着した訳ではない。
(ちなみに、近世以前の平均寿命の短さは乳幼児死亡率の高さが主な原因であり、成人男子の平均余命だけを考えれば現代人より著しく短い訳ではない。
他の戦国大名では武田信虎(享年81歳)など80代まで生きた著名な人物は多い。)

現況

作家などは身分が低く人生の辛酸を舐め、十分に老成した人間でなければ早雲のような活躍はできまいと長年論じてきた。
近年の研究を反映した早雲像は全く別であり、将軍に直接仕える名門一族の青年が幕府の命を帯びて駿河に下り、中央の政治と連動しながら関東で活躍して、後北条氏の祖となったことになる。

これらの新説が、主な小説やメディアでは以下のように扱われている。

司馬遼太郎の『箱根の坂』(1984年)では、その時期の研究を反映して単純な伊勢素浪人とせず、備中伊勢氏とし、政所執事伊勢貞親の屋敷に寄宿しながら京で足利義視に仕える設定である。
しかしながら、大衆小説として「身分の低い素浪人」のイメージを守り、早雲を伊勢氏の末流とし、鞍作りを業にする職人的人物として描かれている。
年齢については当時の通説の享年88説で「大器晩成」として描かれている。
北川殿は血のつながらない妹とされている。

南原幹雄 の『謀将 北条早雲』(2002年)では、近年の研究を反映して康正2年生まれ説を採り、北川殿は姉となっている。

2005年放送の「その時歴史が動いた:戦国をひらいた男~北条早雲 56才からの挑戦~」(日本放送協会、ゲスト:小和田哲男静岡大学教授)では、早雲を幕府の高級官僚としているが、年齢については享年88説を採り「大器晩成」として描いている(諸説を検討の結果一般的な説を採用したとのこと)。

1980年代以前の小説や一般向け書籍では、早雲を「非常に長命な大器晩成」「徒手空拳の素浪人」として書かれているものが多く、海音寺潮五郎の早雲の史伝などは典型である。
現在でもそのイメージで高齢者の再チャレンジの見本のように早雲を語る作家が少なくない。

[English Translation]