坂本龍馬 (SAKAMOTO Ryoma)

革命家

坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日 (旧暦)(1836年1月3日) - 慶応3年11月15日 (旧暦)(1867年12月10日)は、幕末の日本の政治家・実業家。
土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中・海援隊 (浪士結社)の結成、薩長連合の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど、志士として活動した。
贈官位、正四位。
司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の主人公とされて以来、国民的人気を誇っている。
また、その事跡についてはさまざまな論議がある。

諱は直陰のち直柔(なおなり)。
龍馬は通称。
他に才谷梅太郎などの変名がある。
「龍馬」は慣用音(『広辞苑』第5版)では「りゅうま」だが、漢音は「りょうま」で、同時代人の日記や書簡に「良馬」の当て字で記されていることもあり、また龍馬自身も書簡の中で「りよふ」と自署していることもあるため、「りょうま」と読まれていたことは間違いない。
なお、「竜」は「龍」の異体字(「竜」は「龍」の古体字)で、龍馬自身は「竜」の字体を使ったことがないが、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」で使われたことや、「竜」が常用漢字に採用されたこともあり、慣用化されている。

むしろ生前より死後に有名になった人物であり、司馬遼太郎の作品を始め、小説やドラマに度々取り上げられる人物ではあるが、それらは実際の龍馬とかけ離れているのではないかという指摘は多い。
歴史家の中に、特にそのような指摘をする人は多く、松浦玲などが代表格。
松浦玲『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)・池田敬正「司馬遼太郎「竜馬がゆく」をめぐって」(『歴史評論』317、1976年)・絲屋寿雄「竜馬の虚像・実像-司馬遼太郎「竜馬がゆく」によせて-」(『歴史評論』317、1976年)などが参考になる。
ちなみに、龍馬の伝記を書いた歴史家としては、平尾道雄・池田敬正・飛鳥井雅道などが代表的。
その他、詳しくは「文献」の項目を参照のこと。

生涯

12歳、小高坂の楠山塾で学ぶが退塾。
14歳になり高知城下の日根野弁治の道場へ入門し、下士の習う小栗流を学ぶ。

1846年、母・幸死す。

1853年(嘉永6年)に剣術修行のため江戸(東京都)に出て、桶町の北辰一刀流剣術開祖千葉周作の弟の千葉定吉道場(通称:小千葉道場)(東京都千代田区)に入門した。
12月には佐久間象山の私塾にも通っている。

1854年(安政元年)に土佐に帰郷。
画家の川田小龍から西洋事情を学ぶ。

1855年(安政2年)、父・八平が死去。

1856年(安政3年)に再び江戸・定吉道場に遊学。

1857年(安政4年)、盗みを働き切腹沙汰となった仲間の沢辺琢磨を逃がす。

1858年(安政5年)に剣術修行を終えて帰国。
北辰一刀流免許皆伝と言われる事もあるが、実際には「北辰一刀流長刀兵法・目録」を与えられた物であり、一般にいう剣術では無く、正しくは薙刀術兵法であり、免許でもなければ皆伝でもなく、北辰一刀流としては一番低い「初目録」であった。
ただ千葉道場で塾頭を勤めたことや同世代の人物の証言に「免許皆伝を伝授された」という証言も残るため、免許皆伝状は単に現存していないものと思われる(龍馬の遺品は災害や盗難等で幾つか損失している)。
ちなみに、「北辰一刀流長刀兵法・目録」が薙刀の目録であることについては、松岡司「初見の坂本龍馬書状と北辰一刀流長刀兵法目録」(『日本歴史』454号、1986年)、土居晴夫「北辰一刀流とその免許皆伝」(『坂本龍馬事典』新人物往来社、1988年)が詳しい。

1861年(文久元年)、3月、土佐で井口村刃傷事件が起り、龍馬の属する下士と上士の間で対立が深まる『維新土佐勤王史』「坂本等、一時池田の宅に集合し、敢て上士に対抗する気勢を示したり」。
なお、事件の当事者で切腹した池田虎之進の介錯を龍馬が行って、その血に刀の下緒を浸しながら下士の団結を誓ったという逸話が流布しているが、これは坂崎紫瀾の小説『汗血千里駒』のフィクションである。
半年後、下士は武市瑞山をリーダーに土佐勤王党を結成し、龍馬は9番目に加盟した(土佐では加盟第1号)。
10月、武市の密使として長州へ向かい、翌年2月、久坂玄瑞と面談。

1862年(文久2年)3月に沢村惣之丞とともに脱藩した理由は定かではないが、龍馬が吉田東洋暗殺を企てる武市瑞山の方針に反対だったからではないかとの指摘もある。
飛鳥井雅道『坂本龍馬』(平凡社、1975年)・石尾芳久『大政奉還と討幕の密勅』(三一書房、1979年)などを参照。
その直後に勤王党による吉田東洋の暗殺事件が起り、当初は龍馬が実行犯として疑われた。
龍馬は九州などを放浪した後、江戸へ入り千葉道場に身を寄せる『維新土佐勤王史』「坂本は飄然として江戸に下り、彼の旧識なる鍛冶橋外桶町の千葉重太郎方に草蛙を解きぬ」。
その後、千葉重太郎の紹介で、幕府政事総裁職の松平春嶽に面会。
春嶽の紹介状を携え、12月、勝海舟に面会して弟子となる一説には勝を暗殺するために面会に行ったとされるが、これには色々と異説があり、正確な史実は確定していない。
ただし、勝を殺そうとして、逆に諭されて勝の弟子になった人間がたくさんいるのは事実。
また、入門時期や、一緒に勝を訪問した人物についても諸説ある。
諸説を、春名徹「勝海舟」(『坂本龍馬事典』新人物往来社、1988年)が詳しくまとめている。

1863年(文久3年)、勝が進める神戸海軍操練所の設立に尽力し、操練所よりも先に開設された神戸海軍塾の塾頭をつとめるただし、勝海舟の研究者として著名な歴史家の松浦玲をはじめとして何人かの歴史家は、龍馬が塾頭を務めたという説には懐疑的である。

詳しくは松浦玲『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)・濱口裕介「師とともに目指したアジア諸国共有海軍への夢」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)を参照。
勝・松平春嶽の運動で土佐藩主山内容堂から脱藩の罪を許される。
この頃、龍馬は勝の護衛に勤王党の人斬り・岡田以蔵をつけている。
八月十八日の政変で京から尊攘派が駆逐され、土佐勤王党も藩によって壊滅状態となる。
藩の弾圧は江戸の龍馬にも伸び、龍馬は再脱藩する。

1864年(文久4年改元して元治元年)、神戸海軍操練所が創設されたしかし浪人は入所資格を認められなかったこともあり、龍馬は入所できなかったのではないかと指摘している研究者もいる(松浦玲『検証・龍馬伝説』など)。
龍馬はこの頃、弾圧が激しさを増していた京の尊攘過激派を救うべく蝦夷地への移住計画を開始するが、池田屋事件によって頓挫した。
池田屋事件への報復である禁門の変で、長州側に多数の海軍塾生が加わっていたため、海軍塾は幕府から弾圧され、勝も解任された。
勝の庇護を失った龍馬であるが、勝の紹介で西郷吉之助(西郷隆盛)を頼って大阪の薩摩藩邸に保護されるこれには、薩摩藩側が龍馬らの航海技術に利用価値を感じた点も大きいと指摘されている(松浦玲『検証・龍馬伝説』など)。

1865年(元治2年改元して慶応元年)、京の薩摩藩邸に移った龍馬の元に中岡慎太郎らが訪問。
この頃から中岡と共に薩長同盟への運動を開始する。
薩摩藩の援助により、土佐脱藩の仲間と共に長崎で社中(亀山社中・のちに海援隊_(浪士結社))を組織し、物産・武器の貿易を行った。
この年、「非義勅命は勅命にあらず」という文言で有名な大久保利通の書簡を、長州藩重役に届けるという重大な任務を龍馬が大久保や西郷隆盛に任されている。佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年)。

1866年(慶応2年)、1月、坂本龍馬の斡旋により、京都で長門国の木戸孝允(木戸孝允)と薩摩の西郷隆盛が会見し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれた。
このとき龍馬は桂に求められて盟約書の裏書を行っている。
天下の大藩同士の同盟に一介の素浪人が保証を与えたものであって、彼がいかに信を得ていたかがわかる。
なお薩長同盟については龍馬最大の功績と言われるが、実際には、西郷や小松清廉ら薩摩藩の指示を受けて動いていたという説もあり(青山忠正など)、薩長連合に果たした役割の重要性については評価が分かれている。
その後、青山忠正を皮切りに、芳即正・三宅紹宣・宮地正人・高橋秀直・佐々木克などの研究者を中心に薩長同盟についての議論が盛んである。
薩長同盟研究の動向については、桐野作人「同盟の実相と龍馬の果たした役割とは?」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)が詳しくまとめている。
直後の2月、寺田屋で幕吏に襲撃されたが一命を取り留める。
その傷を癒すため、妻おりょうと共に鹿児島を旅行する。
6月、第二次長州征伐では亀山社中の船・乙丑丸で長州藩海軍を支援。

1867年(慶応3年)、土佐藩との関係を修復して海援隊を創設した。
4月、いろは丸展示館いろは丸沈没事件がおこり徳川御三家紀州藩に損害を賠償させる。
後藤象二郎とともに船中八策を策定し、後藤象二郎が山内容堂を説いて土佐藩の進言による大政奉還を実現させた。
ただし、「船中八策」には原文書も写本も存在しないため、本当に龍馬が作成したのか疑問視している研究者も存在する(青山忠正、松浦玲など)。
龍馬が「船中八策」を作成したことは通説になっているが、史料的根拠は見当たらないのである。
詳しくは、青山忠正『明治維新の言語と史料』(清文堂出版、2006年)・松浦玲「『万機公論ニ決スヘシ』は維新後に実現されたか?」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)を参照。
12月、京都の旅寓・近江屋(京都市中京区)で何者かに中岡慎太郎と共に暗殺された。
旧暦の誕生日と命日は同じ。
暗殺犯は京都見廻組という説が有力である。

1871年(明治4年)、8月20日に龍馬の系統が途絶えるのを防ごうと、綸旨により姉千鶴の長男高松太郎が「坂本直」として龍馬の名跡を継いだ。

墓所は京都市東山区の京都霊山護國神社参道中腹。
なお、靖国神社に祀られている。

暗殺
(写真)坂本龍馬像(高知県の桂浜):第二次大戦中の金属供出の際もこの銅像だけは供出を免れている。

龍馬は慶応3年11月15日(1867年12月10日)の暗殺当日には風邪を引いて河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいたとされる。
当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などに訪問されている。
中岡はそのまま龍馬と話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人に切られた。
龍馬達は近江屋の人間が入ってきたものと油断しており、帯刀していなかった。
龍馬はまず額を深く斬られ、奮戦するもののそれが原因ですぐに死亡。
中岡も重傷を負うが数日間は意識があり事件の証言を残した。
慎太郎もまもなく死亡した。

京都見廻組実行説

大正時代になって元京都見廻組隊士だった今井信郎、渡辺篤 (剣客)の口述で、佐々木只三郎らが実行犯であると証言している。
また、勝海舟は幕府上層部の指示であるとも推測している。
この見廻組実行説がいわば通説となっており、これに疑問を呈する歴史学者は皆無に等しい。
ただし、今井や渡辺の口述に食い違う部分があるため、主に作家を中心に色々な異説が唱えられている状況である。
2006年に学習研究社から発売された『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』では、菊地明が「寺田屋事件の際に捕縛方一人を殺害したことで「お尋ね者」になっており、見廻組が逮捕のためにやってきた」という説を出しているが、この説に関しても今後精査が必要である。

新選組犯行説

龍馬暗殺当時の現場に残された鞘などの物証や、3日後に暗殺された伊東甲子太郎の御陵衛士らの証言から新選組の原田左之助によるものと信じられていたが、刀傷は左利きによるものであると言う説もある。
これを採用するなら左利きで、北辰一刀流の達人である龍馬を殺害できるだけの実力のある人物となると、斎藤一という説もある。
しかし現在では、新選組犯行説を支持する研究者はほとんどいない。

(斉藤一の新撰組復帰時期は諸説あるが、浅田次郎の壬生義士伝の中では、御陵衛士(高台寺党)としての斉藤説を唱えている。
しかしながら、斎藤の左利き説自体が史実である可能性は低い)。

薩摩藩陰謀説

大政奉還以降、龍馬は幕府に対する態度を軟化させ、徳川慶喜を含めた諸侯会議による新政府の設立に傾いていたともいわれる。
武力倒幕を目指していた西郷隆盛、大久保利通らが、こうした龍馬の動きを看過できなくなり、故意に幕府側に龍馬の所在を漏らしたとする説。
維新クーデターによる大政奉還派の暗殺説は、佐々木多門の書状や近江屋の女中たちの証言などの資料をもとにしている。
また、この説は大政奉還路線と武力倒幕路線の対立を必要以上に強調しすぎたきらいがあり、両者は相容れない路線ではなかったとする学説 家近良樹『幕末政治と倒幕運動』(吉川弘文館、1995年)・高橋秀直「「公議政体派」と薩摩倒幕派-王政復古クーデター再考-」(『京都大学文学部研究紀要』41、2002年)・佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年)・井上勲「大政奉還運動の形成過程(一)」(『史学雑誌』81-11、1972年)などが参考になる。
を全く考慮に入れていないところが最大の問題で、その点で根拠が弱い。
この説には一部で熱狂的な支持者がいる。
幕藩側に立って書かれた大河ドラマ『新選組!』やテレビ東京新春ワイド時代劇『竜馬がゆく (2004年 テレビドラマ)』ではこの説に則って龍馬の暗殺を描いている。
時空警察PART4でもこの説に基づいて龍馬暗殺犯を解説するなど、テレビ・小説などではこの説を採用することが多く、一般ではこの説を信じている人が多い傾向が見られる。
ものの、歴史学界ではほとんど相手にされていないのが実情。
薩摩藩陰謀説が成り立たないことを政治史的な観点から論証したものに、桐野作人「龍馬遭難事件の新視角-海援隊士・佐々木多門書状の再検討- 第1回・第2回・最終回」(『歴史読本』第51巻第10号・第51巻第11号・第51巻第12号、2006年)がある。

死後の評判

前述の通り、坂本龍馬はむしろ生前よりも死後に有名になった人物である。

その最初は明治16年(1883年)、高知の『土陽新聞』に坂崎紫瀾が書いた『汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)』が掲載され、大評判となった事である。

次に龍馬ブームが起きるのは日露戦争時である。
日本海海戦の直前に、龍馬が昭憲皇太后逸話の夢枕に立ち、「日本海軍は絶対勝てます」と語ったという話である。
皇后はこの人物を知らなかったが、宮内大臣の田中光顕が、龍馬の写真を見せたところ、間違いなくこの人物だということになったと言われる。
真偽のほどは定かではないが、この話が全国紙に掲載されたため、坂本龍馬の評判が全国に広まる事となる。

坂崎はもちろん、田中も土佐出身の人物である。
当時明治政府を牛耳っていた薩長閥に対し、土佐出身者が挽回を図るべく、土佐出身の維新の功労者として、坂本龍馬を持ち上げたのである。
勝海舟も坂本龍馬を持ち上げたひとりであるが、旧幕臣という立場で薩長閥に対する反発があったのは、想像に難く無い。

その他

京都国立博物館には数箇所の血痕が残る掛け軸が所蔵されている。
それは淡海槐堂が暗殺当日に誕生日祝いとして贈った「梅椿図」という作品である。
付着した血痕は暗殺された龍馬らのものとされている。
『竜馬がゆく』でも描かれているように、剣術の腕は相当なものだったと暗殺された時の状況から推測できる。

龍馬は刺客からの「不意」をつかれた「突然」の攻撃から、二の太刀目で身をひねって刀に手を伸ばし、三の太刀目には鞘で受け止めるまで防御の体制を取っている。

逸話

龍馬の人生・人格形成において多大な影響を与えていったのは、父・八平の後妻である伊興の実家、下田屋(川島家)といわれている。
龍馬は姉である乙女とともに浦戸湾を船で漕ぎ、当時土佐藩御船蔵のあった種崎にある継母伊興の家をたびたび訪れては、長崎や下関からの珍しい土産話などを聞いたとされる。
また、世界地図や数々の輸入品を見て外の世界への憧れを高めたともいわれている。
詳細は山田一郎『海援隊遺文』(新潮社、1991年)などに、また土佐藩の御船蔵や海事資料については吉永豊実『土佐海事法制史』(山海堂、1983年)に詳しい。

当時土佐藩士の間では長刀をさすことが流行していた。
あるとき龍馬の旧友が龍馬と再会したとき、龍馬は短めの刀を差していた。
そのことを指摘したところ「実戦では短い刀のほうが取り回しがよい」と言われ、納得した旧友は短い刀を差すようにした。
次に再会したとき、旧友が勇んで刀を見せたところ龍馬は懐から拳銃を出し「銃の前には刀なんて役にたたない」と言われた。
納得した旧友はさっそく拳銃を買い求めた。
三度再会したとき、旧友が購入した拳銃を見せたところ龍馬は万国公法(国際法)の洋書を取り出し「これからは世界を知らなければならない」といわれた。
もはや旧友はついていけなかったという。
これは龍馬の性格を鮮やかに描写しているものの、あくまで逸話であって史実ではない。
逸話の起源は、定かではない。

寺田屋事件直後にお龍と結婚した龍馬は、同事件での傷をいやすことも兼ねてお龍を伴って薩摩に滞在した。
これを指して、日本で初めての新婚旅行とされる。

龍馬が愛用した拳銃は2丁ある。
ひとつは高杉晋作から贈呈されたスミス&ウェッソンモデル2アーミー 33口径で、寺田屋事件の際に火を噴いたのはこの銃である。
しかし同事件の際に紛失し、後に買い求めたのがS&Wモデル1 22口径で、これは妻・お龍とともに1丁ずつ所持し、薩摩滞在時はこれで狩猟などを楽しんだという。
当然この銃は暗殺時も携帯していたが発砲することなく殺害されている。

幼少の頃、水練(水泳)に出かける途中、友人に「こんな雨で泳ぐのか」と問われたが、「濡れるのに雨も関係あるか」とそのまま川に行ったという。

身長6尺(約182cm。
近年の研究では174cmや169cmというものもあり)と江戸時代の当時としてはかなりな大男であったといえるだろう。

背中に黒毛が生えていた。

少年時はおねしょタレで、泣き虫。
勉強についていけず塾を退塾になった。

武市半平太とは「アギ(あご)」「アザ(痣)」とあだ名で呼び合う仲だった。

姉・幸の夫の家によく遊びに行き、屋根に上って太平洋を眺めていた。

西郷に対し「わしは世界の海援隊をやります」と語り、その様子を同席していた陸奥宗光がことあるごとに回想して語ったとされている。
しかしこれは後世の創作らしい。

同時代の龍馬評

住谷寅之介「龍馬誠実可也の人物、併せて撃剣家、事情迂闊、何も知らずとぞ」(龍馬江戸修行後)
平井収二郎「元より龍馬は人物なれども、書物を読まぬ故、時として間違ひし事もござ候へば」(龍馬脱藩後)
武市半平太「土佐一国にはあだたぬ奴」(龍馬脱藩後)、「肝胆もとより雄大、奇機おのずから湧出し、 飛潜だれか識るあらん、ひとえに龍名 に恥じず」(獄中で)
東久世通禧「龍馬面会、偉人なり。奇説家なり」(薩長同盟直前)

勝海舟「坂本龍馬、彼はおれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。
その時おれは笑って受けたが、沈着いて、なんとなく冒しがたい威権があってよい男だったよ」(維新後)

西郷隆盛「天下に有志あり、余多く之と交わる。
然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。
龍馬の度量や到底測るべからず」

土方久元「その言行すこぶる意表に出で、時としては大いに馬鹿らしき事を演じたれど、また実に非凡の思想を有し、之を断行し得たり」
三吉慎蔵「過激なることは豪も無し。
かつ声高に事を論ずる様のこともなく、至極おとなしき人なり。
容貌を一見すれば豪気に見受けらるるも、万事温和に事を処する人なり。
但し胆力が極めて大なり」

家系・家族

清和源氏の一支族美濃源氏土岐氏の庶家、明智氏の末裔を称する。
坂本姓の由来は、本能寺の変以前、明智氏所領であった坂本(現滋賀県大津市坂本)に由来している。
しかしこれは後世の創作だろうとする声も強い土居晴夫『坂本龍馬の系譜』(新人物往来社、2006年)などが詳しい。
家紋は組み合わせ角に桔梗。

坂本家が主君に差し出した『先祖書指出控』には、「先祖、坂本太郎五郎、生国山城国、郡村未だ詳らかならず、仕声弓戦之難を避け、長岡郡才谷村に来住す。
但し年歴、妻之里、且つ病死之年月等未詳」とある。

天正16年(1588年)才谷村の検地で村の3番目の百姓として登録されているにすぎない。

どうやら3代目太郎左衛門までは公認の名字をもたぬ百姓身分と考えられる。
2代目彦三郎、3代目太郎左衛門まで才谷村で農業を営んだ。
4代目守之、5代目正禎は才谷村の大字の一つである「大浜」を家名としてなのりはじめる。

寛文6年(1666年)3代目太郎左衛門の次男・八兵衛は高知城下にでて質屋を開業(屋号は才谷屋)し、酒屋、呉服等を扱う豪商となる。

享保15年(1730年)ころ本町筋の年寄役となり、藩主に拝謁を許されるにいたった。

明和7年(1770年)6代目直益は郷士の株を買い長男・直海を郷士坂本家の初代とし、名字帯刀、すなわち公認の名字を名乗り身分表象として二本差す身分にたどりついた。

次男直清には商家才谷屋をつがせている。
郷士坂本家3代目直足は白札郷士山本覚右衛門の次男としてうまれ坂本家へ養子としてはいった。
直足の次男が直陰(坂本龍馬)である。

土佐藩郷士・坂本直足の次男。

母は坂本幸。

兄は権平
姉は千鶴、栄、坂本乙女(おとめ)。
妻はおりょう(楢崎龍)
婚約者・千葉さな子もいたとされる。

[English Translation]