多賀高忠 (TAGA Takatada)

多賀 高忠(たが たかただ、応永32年(1425年)-文明 (日本)18年8月17日 (旧暦)(1486年9月14日))は室町時代の武将。
多賀豊後守家当主で近江国京極氏の重臣。
多賀高長の子。
通称新左衛門・豊後守。
法号は宗本。
号は大源。
2度に渡り侍所を務め、名所司代として知られる。

経歴

主君京極持清は実の従兄でもあり、その片腕として活躍する。
寛正3年10月5日 (旧暦)(1462年10月27日)に京都侍所所司代を任ぜられる。
だが、文正元年(1466年)暮れ、持清の失脚とともに解任された。
翌応仁元年(1467年)、応仁の乱が勃発すると持清と共に一万の兵を率いて細川勝元ら東軍に属し、西軍の六角高頼らを圧倒して、山城国に如意岳城を築いた。
文明元年(1469年)には六角氏の本拠である観音寺城を一時制圧して征夷大将軍足利義政から直々に感状を授けられた。
ところが、翌年に主君・持清が病死、遺児である京極政高を庇護して京極高清、京極政光、六角高頼、多賀宗直らの勢力に一時優勢を保つも文明4年(1472年)敗走、京極政高と共に越前国へ逃れる。
文明7年(1475年)、出雲国の国人を擁して再起して六角高頼らと戦い勝利するが、西軍土岐成頼、斯波義廉が高頼方に付き敗北、三沢氏ら有力国衆を戦死させて敗退した。
文明9年(1477年)の応仁の乱終結後も本拠である近江国犬上郡に復帰できずに京都での隠棲生活を余儀なくされていたが、文明17年4月15日 (旧暦)(1485年5月28日)に室町幕府に召されて2度目の京都侍所所司代を任ぜられ、幕命を受け山城国内の土一揆を鎮圧して、京都市中の再建に尽力するも翌年没した。
子孫は室町幕府に仕えて近江国高島郡に拠点を移した。
墓所は京都市下京区堺町の宗仙寺。

高忠は武家故実に明るく小笠原持長に弓術を学び、『高忠聞書』を著した。
『高忠聞書』は弓術に於ける研究資料として、また当時の故実を知る史料として現在まで重要な役割を果たしている。
また隠棲中の文明12年(1480年)、高忠は尾張国守護代の織田敏定へ弓道書の『犬追物記』(『高忠聞書』と同じものか?)を借したという。
更に和歌・連歌にも通じるなど、当時の知識人の1人であった。

[English Translation]