大島光義 (OSHIMA Mitsuyoshi)

大島 光義(おおしま みつよし、永正5年(1508年)- 慶長9年8月23日 (旧暦)(1604年9月16日))は、戦国時代 (日本)の武将。
江戸時代の大名で、美濃国関藩主。
子は大島光成、大島光政、大島光俊、大島光朝、蒔田広定妻など。
光吉、新八郎、雲八とも。
大嶋光義。

美濃国関の出身(大垣大島とも)。
幼くして孤児となったが、13歳の時に戦場にて弓で敵を仕留めた功により、武辺の人生が始まる。
はじめ美濃斎藤氏に仕えていたらしいが、斉藤氏滅亡後織田信長に仕える。
天正10年(1582)1月10日に信長から「射芸をもって数度戦功の賞」として近江国内に100石を与えられる。
次いで丹羽長秀に仕えた。
姉川の戦い、長篠の戦い、賤ヶ岳の戦いなど歴戦を重ね、生涯53度の合戦に臨み、41通の感状を得たと伝わる。
長秀死後は豊臣秀吉の家臣となり、その弓頭(弓大将)となった。
1590年の小田原の役にも参加し、1592年からの朝鮮出兵では肥前国名護屋城に在陣した。
1598年には摂津国・尾張国・美濃国国内に1万1200石の所領を与えられて大名となった。

1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、先ず東軍(徳川方)として会津に従軍する。
(年齢的にかなり高齢の光義自身は出陣していない、という説あり)。
その後次男光政や三男光俊は西軍に与した。
このため、西軍の石田三成らによって妻子を人質に取られてしまう。
光義勢は東軍に与して武功を挙げたことから、戦後1万8000石に加増された。

関ヶ原の一年後、徳川家康に堀尾可晴、猪子一時、船越景直らと共に呼び出され、昔話などをしたと伝わる。

1604年8月23日、97歳の長寿をもって死去。
死後、家督は自分と共に東軍に与した長男の光成が継いだが、所領を4人の子供たちに分地、それぞれ一万石以下の旗本となり、ここに関藩は廃藩となったのである。

現在の京阪墨染駅の西側に、深草大島屋敷町という地名があるが、これは大島光義の伏見屋敷があった地であることに由来する。
また、豊中市の大嶋町も旧領に由来する。

[English Translation]