妹尾兼康 (SENOO Kaneyasu)

妹尾 兼康(せのお かねやす、保安 (元号)4年(1123年) - 寿永2年10月12日 (旧暦)(1183年11月28日))は、平安時代末期の平氏方の武将。
瀬尾兼康とも呼ばれる。
字は太郎。

経歴

白河天皇、もしくは鳥羽天皇の御落胤ともいわれる。
早くから平氏に仕え、『保元物語』『平治物語』『平家物語』などに平家方の侍としてその名が記されている。

治承4年(1180年)には奈良で蜂起した僧兵たちの鎮圧を任せられたが、本格的な武装を禁じられたため多くの死傷者を出した。
このことが後に平重衡らによる南都焼き討ちへとつながっている。
その後寿永2年(1183年)の倶利伽羅峠の戦いに平家方で参戦するも、源義仲軍に敗れてその捕虜となる。
しかし、備前国で逃亡を図り、監視役の倉光成氏を殺害し、2000人もの兵を集めて福隆寺縄手・笹の迫に立てこもって義仲に反旗を翻す。
成氏の兄・倉光成澄を討ち取るなど奮戦したが、そこでも敗れて敗走。
その後、肥満の為自分で身体を動かす事ができない嫡子・妹尾宗康を助けるために引き返すが、備中国板倉宿付近(現・岡山県総社市)で討たれた。
源義仲をして、以下のように言わしめたという。
「あっぱれ剛の者かな。」
「是をこそ一人當千(とうぜん)の兵(つわもの)ともいふべけれ」

平家女護島(俊寛)

近松門左衛門の人形浄瑠璃、平家女護島の2段目俊寛に妹尾兼康が悪役として登場している。

[English Translation]