小山朝政 (OYAMA Tomomasa)

小山 朝政(おやま ともまさ)は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将である。

源頼朝に挙兵の頃から仕え、播磨国守護に補されたほか、下野守にも任ぜられたとされるが、朝政の晩年の職位は「左衛門尉」や「判官」でありこれらは従六位か従七位の官位であること、また父・政光の官位も正七位下であったことなどから、卒年に従五位下下野守であったという『吾妻鏡』の記載は誤記の疑いがある。

出生

仁平4年(1154年)頃に小山政光(父で小山氏の祖)の子として生まれる。
父は武蔵国の太田氏の出であり、下野国小山市に移住して小山氏を名乗り、後妻に八田宗綱の息女で源頼朝の乳母である寒河尼を娶っていた。

源平合戦

治承4年(1180年)、源頼朝は平氏打倒の兵を挙げ、9月3日、朝政はそれへの参向を求める書状を送られる。
10月2日、寒河尼は実子の結城朝光を伴って頼朝の下に参じ、朝政もその後の早い時期に従ったと考えられている。

寿永2年(1183年)2月、頼朝の御家人らは鎌倉に襲来すると風聞された平氏のため駿河国に在った。

20日、常陸国志田に住む源義広 (志田三郎先生)は鎌倉を攻める兵を挙げ、三万余騎を率い下野国へと到る。
頼朝は下野に在った朝政にその対応を託し、それを助けるため弟の長沼宗政らは鎌倉を発する。

23日、義広は鎌倉へ向けて軍を発し、それに加わるよう朝政を誘う。
朝政は父が京で大番役を勤めており兵が少なく、加わると偽りの答えを返す。
喜んだ義広は朝政の館に向かい、その途中の野木町に至ると、潜んでいた朝政らは声をあげ狼狽させ攻める。
この時の朝政は25歳で力に優れ、火威の鎧を着け鹿毛の馬に跨り、四方に駆け多くの敵を亡ぼした。
義広の放った矢を受け落馬するが死には至らず、野木宮の西南に陣を引いた義広を、朝政と宗政は東から攻め破った。
野木宮合戦と呼ばれる。

28日、使者を発し頼朝に戦勝を告げる。
頼朝は義広に与した常陸国、下野国、上野国の武士を所領を収公し、朝政らは恩賞を得た。

元暦元年(1184年)8月8日、源範頼は平氏追討の為に京へ向い、9月2日、朝政はそれに属せよとの命を受け鎌倉を発する。
その際に朝政は兵衛尉を望み、京でその任官を受けた。

元暦2年(1185年)1月26日、範頼らと共に周防国から船で豊後国に渡る。
3月11日、兵糧の不足に苦しむ範頼の軍の中で、他の御家人らと共に頼朝より慇懃の書を受ける。
3月24日、壇ノ浦の戦いで平家一門は滅びた。

4月15日、頼朝は内挙を得ず任官を受けた御家人らの帰国を禁じる書状を発し、朝政もそれに入れられ次の様に記された。
「鎮西に下向するの時、京に於いて拝任せしむ事、駘馬の道草を喰らうが如し」

10月24日、朝政は許されており、鎌倉で行われた源義朝の法要に参列する。
この法要は鎌倉の頼朝と京の源義経が対立する中で、三千人弱の主要な御家人を集めて営まれた。
法要が終わると頼朝は明日上洛との意を述べ御家人を集める。
その中でも明暁に進発する者を募り、朝政はそれに応えた58人中の筆頭であった。
11月1日、頼朝の軍は駿河国黄瀬川に達し、義経は戦わずして京を落ちた。

以降、朝政は鎌倉で行われる儀式に多く名を連ねる事となる。

奥州合戦

文治5年(1189年)7月19日、頼朝は藤原泰衡を討つ為に鎌倉を発し、朝政はそれに従う。

7月25日、下野国古多橋駅(現・宇都宮市)において願を立て宇都宮二荒山神社を奉幣した折、その宿所にて父の政光が頼朝に食事を献じた。
その場には熊谷直家が在り、政光が直家は何者かを質問すると、頼朝は直家を無双の勇士と評し、それが直家には郎従が少く源平合戦では自ら戦った事によると応えた。
政光は朝政、長沼宗政、結城朝光、宇都宮頼綱ら兄弟に対し、今度は自ら合戦を遂げ無双の御旨を蒙るよう命ずる。
頼朝はこれを聞き入興した。

8月10日、阿津賀志山の戦いに加わり、守る藤原国衡を破る。
8月14日、玉造郡物見岡に泰衡を追い岡を囲む。
泰衡は既に逃亡しており、岡には五十人弱の郎従が残っていた。
それらは朝政らの武勇により、討たれまたは捕らえられる。

9月、合戦は泰衡が自らの郎党に討たれ、頼朝らの勝利に終わった。

幕府宿老

建久元年(1190年)冬、頼朝の上洛に随行し、11月11日、石清水八幡宮への参拝では行列の先頭を務める。
12月11日、頼朝は勲功の有る御家人ら十人を挙任し、朝政はその中の一人として右兵衛尉から右衛門尉に転じる。

建久3年(1192年)9月12日、野木宮合戦の功により常陸国村田下庄の地頭に補任される。
この時には左衛門尉に転じている。

正治元年(1199年)10月28日、梶原景時を訴える連署状に名を連ねる。
12月19日、播磨守護に補される。

建仁元年(1201年)2月3日、大番役で在京しており、関東追討の勅許を求める城長茂に三条東洞院の宿舎を襲われる。
朝政は行幸に随行し不在で、残っていた郎従らが応戦し長茂は兵を引いた。
戻った朝政は長茂が在るという清水坂に向うが行方は知れず、長茂は後に吉野で討たれ首を晒された。

元久2年(1205年)8月7日、幕府から義理の兄弟である宇都宮頼綱の謀反が疑われ、北条政子邸における評議の席で大江広元は朝政が頼綱を追討すべきと主張するが、朝政は反逆には賛同しないが防戦の際には全力を尽くすと述べ、追討を辞する。
11日、頼綱と朝政は書状を北条義時に届け、謀計は無き旨を述べるが許されず、この結果、頼綱は遁俗する。

承久3年(1221年)、承久の乱では宿老として上洛せず関東に在った。

貞応2年(1223年)10月25日、検非違使を兼ねている。

嘉禎4年(1238年)3月30日、84歳で卒する。
病を患うと幾日も経なかった。
(以上、吾妻鏡より)

墓は埼玉県加須市にあり、1959年6月16日、市の史跡に指定。
吾妻鏡には卒去時の官位として下野守従五位下とあるが、同書に見られる朝政の晩年の職位は「左衛門尉」や「判官」であり、これらは従六位か従七位の官位であることから、従五位下下野守は誤りの可能性が高い。

年表

年月日は出典が用いる暦であり、西暦は元日をそれに変更している。

[English Translation]