山中幸盛 (YAMANAKA Yukimori)

山中 幸盛(やまなか ゆきもり)は、戦国時代 (日本)の山陰地方の武将。
出雲国能義郡(現島根県安来市広瀬町)に生まれる。
戦国大名尼子氏の家臣。
本姓は源氏。
家系は宇多源氏の流れを汲む佐々木氏(京極氏)の支流で、尼子氏の一門である。
実名は幸盛(ゆきもり)、通称鹿介である。
講談の類で鹿之助とされたため一般には山中鹿之介(しかのすけ)なる誤った表記で知られる。
幼名は甚次郎。
「山陰の麒麟児」の異名を取る。

生涯

文中の()の年はユリウス暦、月日は西暦部分を除いて全て和暦、宣明暦の長暦による。

山中家は尼子氏の庶流にあたり、山中幸久を初代とする。
幼少から尼子氏に仕えた。
講談などによると、尼子義久が毛利元就に攻められ、次第に勢力を奪われていく中で、尼子十勇士の一人として活躍したという。

いずれにせよ活動が明らかに知られるのは永禄9年(1566年)に尼子義久が毛利氏に降り、戦国大名尼子氏が滅びて以降のことである。
尼子氏が衰亡していく中、御家再興のため、鹿介が「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話は講談などによりよく知られる。

山中鹿介の尼子再興運動は、概ね3回に分けて見ることができる。

第一回尼子再興

永禄11年(1568年・24歳) - 元亀2年(1571年8月21日・27歳)

永禄11年(1568年)、鹿介は尼子氏を再興するために京都で僧籍にあった尼子国久の孫尼子勝久を還俗させて擁立した。
立原久綱・横道正光・牛尾弾正忠・三刀屋蔵人・遠藤甚九郎ら尼子遺臣団は、山名豊祐の家老垣屋播磨守を頼り、但馬国を経由し奈佐日本之介の手を借りて隠岐に依る。
隠岐の豪族・隠岐為清の協力を得て、永禄12年(1569年)には海浜の出雲忠山を占領する。
その後、出雲の尼子遺臣の勢力を吸収し、新山城を攻略してここに本営を設置。
毛利氏の拠点となっていた月山富田城を除き、出雲一国をほぼ手中に収めんとするまでに勢力を伸張した。

しかし、配下の略奪行為が因幡でも見られる(「因幡民談記」より)など統制維持が乱れた。
その後は隠岐為清の離反を招き、布部山の戦いに敗北すると衰勢著しく、元亀2年(1571年)8月には最後の拠点であった新山城が落城する。
この戦いで、鹿介は毛利元就の次男吉川元春に捕らえられた。
ところがこの時、腹痛を装って何度も厠に入り、油断した監視の目を逃れるために厠から糞にまみれながらも脱走したといい、勝久とともに再び京都に逃れた。

第二回尼子再興

元亀3年(1572年8月・28歳) - 天正4年(1576年5月4日・32歳)

京へ戻った鹿介らは、織田信長に謁し、中国攻めの先方となることを誓ったとされる。
尼子遺臣団は尼子氏再興の志を秘めて山名氏の軍勢に加わり、山名氏に謀叛して鳥取城に篭った武田高信と闘い、因幡国を転戦、甑山城での戦いにて決定的な勝利を得た。
もっとも、その後に武田氏に味方した鳥取城を毛利氏に奪われた。

この頃の山陰は勢力地図が頻繁に変わる時代であったが、その一つの要因は、山名氏が毛利と織田の二大勢力に翻弄されていたことにある。
織田氏と気脈を通じていた尼子遺臣団は、当時毛利寄りであった山名氏を離反する。
天正2年(1574年)頃には因幡国の諸城を攻略し、織田方の浦上宗景の助力もあって若桜鬼ヶ城・市場城を確保。
一時的に尼子氏を再興することに成功した。

しかし、天正3年(1575年)9月には毛利方が私都城を攻略し、古くからの尼子遺臣であった横道兄弟・森脇久仍・牛尾大炊助らが毛利氏に降るという事態が発生した。
また、天正4年(1576年)には情勢の変化からか、織田信長は鹿介を庇護しない旨を吉川元春に伝えている。
重臣と庇護者を同時に失った尼子遺臣団は、居城の若桜鬼ヶ城を支えることができずに丹波方面へ落ち延びることとなった。
織田氏の処置は、本願寺などの諸勢力との闘いが続く中で、毛利氏との軋轢を一時的に軽減するための政治的な目的があったと考えられる。
この後、尼子遺臣団は再び中国方面軍に編入されることとなる。

第三回尼子再興

天正5年(1577年9月27日・33歳) - 天正6年(1578年・34歳)

天正5年(1577年)、信長の命により豊臣秀吉の中国遠征が始まった。
その先鋒として播磨国に送り込まれ、上月城に拠って尼子氏の再興を目指した。
しかし、翌天正6年(1578年)に毛利軍に攻められた際、織田軍が北の上杉謙信や石山本願寺の攻勢に備えるため播磨から軍を引いた。
そのため、上月城は孤立し、「打倒尼子」の意気に燃える毛利軍の包囲攻撃を喰らい、尼子主従は城を支えきれず降伏した。(上月城の戦い)
(上月城の戦い)

この時、主君の尼子勝久は自害したが、鹿介は自害せず、毛利氏に降った。
しかし毛利輝元の下へ護送される途上の備中国合の渡(岡山県高梁市)の阿井の渡しにて謀殺された。
通説によれば、鹿介は尚も生き延びて、尼子氏を必ずや再興するという執念を胸中に抱いていたため、これを生かしておくと危険と見た吉川元春が先手を打ち、鹿介は殺害されたと言われている。
鹿介の死を以って尼子氏再興活動は完全に絶たれることとなった。

殺害現場である現在の高梁市の高梁川と成羽川との合流点付近の国道313号沿いに墓所はあるが、胴体は観泉寺前住珊牛和尚によって埋葬された胴塚が現在も観泉寺墓地に残っている。
首級は備後国鞆の浦に在していた時の室町幕府15代将軍足利義昭や毛利輝元により実検が行われ、その後地元の人たちが手厚く葬った首塚が現在も残る(鞆の浦・静観寺山門前)。

評価とその後

信長公記には、信長が事実上見殺しにしたことを豊臣秀吉が悔やみ、嫡子の織田信忠に対して「信長の名声に傷がついた」と嘆く一節がある。
もっとも、信長の鹿介ら尼子遺臣団に対する措置は最初から冷酷と言っていいほどで、その事績をたどるとほぼ捨て駒として使われていることが窺われる。
それとは対照的に、秀吉は上記のような発言をしていることからしても尼子遺臣団に対してかなり好意的・同情的であった。
ただし、これは後に織田家の権力を乗っ取った秀吉による、信長の印象操作であるとの見方もできる。

鹿介の死は尼子再興運動の終幕ではあったが、尼子遺臣団の完全な解体とはならなかった。
上月城陥落時、亀井茲矩率いる部隊は秀吉に従っていたために難を逃れていたのである。
尼子遺臣団の一部はこの亀井家の家臣団として再編成され近世大名への道を歩み始める。
その後は東軍に属して関ヶ原の戦いでも前衛の部隊として参戦、徳川幕藩体制に組み込まれ、幕末を迎えた。

また、鹿野町の大名となった亀井茲矩の手により、菩提寺として幸盛寺が建立され、その後境内に墓所が建立されている。

幸盛の行動は忠誠心溢れるもののように感じられるが、尼子氏の嫡流で当主である尼子義久らは毛利氏の監視下にあり、ある面から見れば幸盛の行動は主君の命に関わるものでもあった。
事実尼子三兄弟は20年近くに渡って軟禁状態に置かれるのである。
そのことを勘案するならば、幸盛が忠誠を誓ったのは「尼子」の血脈ではなく、あくまで大名家としての「尼子家」であったと言えるかもしれない。

衰亡した主家に忠誠を尽くして戦い続けたことはほぼ史実が裏付けており、その有り様が後人の琴線に触れ、講談などによる潤色の素地となった。
その有り様が後人の琴線に触れ、講談などによる潤色の素地となった。
特に江戸時代には忠義の武将としての側面が描かれ、悲運の英雄としての「山中鹿之助」が作られていく。
これが世に広く知られ、武士道を精神的な支柱とした明治以降の国民教育の題材として、月に七難八苦を祈った話が教科書に採用された。

なお、長男山中幸元(鴻池新六)は父の死後、武士を廃して摂津国川辺郡 (兵庫県)伊丹市で酒造業を始めて財をなし、のちに大阪に移住して江戸時代以降の豪商鴻池財閥の始祖となった。
その為か、鴻池家では毛利家への財政支援を行わなかったという。

実像

勇猛な美男子であったといい、毛利軍で猛将として知られた菊池音八や、有名な品川大膳との闘い、信貴山城攻略での松永久秀の家臣河合将監をいずれも一騎打ちで討ち取ったという逸話が知られる。
品川大膳との一騎討ちについては、史料により異同がある。
毛利側の資料『陰徳太平記』では、品川が優勢に勝負を進め幸盛を追い込んだ所を僚友・秋上庵介の助力で勝ったと記され、尼子側の記述『雲陽軍実記』では幸盛が見事に討ち取ったと記されている。
史料によって異同があり事実は不明であるが、参考として史料の成立としては『雲陽軍実記』の方が100年前後古い事だけを付記しておく。

[English Translation]