岡本重之 (OKAMOTO Shigeyuki)

岡本 重之 (おかもと しげゆき、慶安4年(1651年) - 宝永8年2月20日 (旧暦)(1711年4月7日))は赤穂藩主浅野長矩の家臣。
大阪留守居役400石。
高録を食みながら仇討ちの盟約から脱盟したため“不忠臣”の1人として悪名高い。
通称は次郎左衛門(じろうざえもん)。

同じく浅野家家臣である大石信澄(450石)の次女べんを妻に持つため、赤穂47士の1人である大石信清(信澄の二男)にとっては義兄に当たる。
もっともこのべんは元禄3年(1690年)12月6日に享年20にして亡くなっている。
元禄14年(1701年)3月14日の刃傷事件があったのち、大石内蔵助の指示により大阪藩邸を引き払い、4月10日に赤穂へ戻った。
江赤見聞記によると赤穂城開城前に筆頭家老大石良雄に神文血判書を提出した79人の1人として名前が挙がっているが、他の書には彼の名は除かれている。
いずれにしても赤穂城開城後は伏見に移住して大石内蔵助らによる浅野家御家再興運動に助力している。
しかし元禄15年(1702年)7月、内匠頭の弟浅野長広の広島浅野宗家への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的となった。
内蔵助は仇討計画に切り替えるため、一度神文返しをして脱盟希望者を募ったが、この際に岡本も脱盟。
その後は山城国乙訓郡で暮らし、宝永8年2月20日に死去した。
享年61。
嵯峨称念寺に改葬された。
法号真堂義融居士。

[English Translation]