島津久光 (SHIMAZU Hisamitsu)

島津 久光(しまづ ひさみつ、文化 (元号)14年10月24日 (旧暦)(1817年12月2日) - 明治20年(1887年)12月6日)は、幕末の薩摩藩における事実上の最高権力者。
玉里家初代当主。
位階勲等爵位は従一位菊花章公爵。
字は君輝、邦行。
雅号は幼少時が徳洋、以後は大簡・双松・玩古道人・無志翁と号した。

島津氏27代当主島津斉興の五男。
生母は斉興の側室お由羅の方。
28代当主島津斉彬は異母兄。
29代当主島津忠義は長男。
次男島津久治は宮之城家、四男島津珍彦は重富家、五男島津忠欽は今和泉家をそれぞれ相続した。
曾孫に香淳皇后。
玄孫に明仁。

若年期

文化14年(1817年)、薩摩国鹿児島郡(現鹿児島県鹿児島市)の鹿児島城で斉興5男として誕生する。
幼名晋之進(かねのしん)。
文政元年(1818年)3月1日に種子島氏・種子島久道の養子となり公子(藩主の子)の待遇を受ける。
文政8年(1825年)3月本家に復帰し、4月に又次郎と改名。
11月1日、島津一門家筆頭の重富家の次期当主島津忠公の娘千百子と婚姻し婿養子となる。
なお、『島津氏正統系図』には種子島氏の養子になった事実が省かれている。

重富家への養子入りを機に、鹿児島城から城下の重富邸へ移り住む。
文政11年(1828年)2月に斉興が烏帽子親となり元服、忠教(ただゆき)の諱を授かる。
天保7年(1836年)2月、千百子と婚礼の式を挙げる。
天保10年(1839年)11月に重富家の家督を相続し、12月に仮名 (通称)を山城と改める。
弘化4年(1847年)10月、通称を山城から周防へ改める。

斉興の後継の地位をめぐって、斉彬と忠教の兄弟をそれぞれ擁立する派閥による御家騒動(お由羅騒動)が発生したことで、江戸幕府の介入を招来した。
嘉永4年(1851年)に斉興が隠退、斉彬が薩摩藩主となる。
島津氏家督の座を争うかたちにはなったが、忠教自身は反斉彬派に担がれたという要素が強く、斉彬と忠教の個人的関係は一貫して悪くなかったとみられる。
また忠教は、兄斉彬と同様、非常に学問好きであった。
ただ、蘭学を好んだ斉彬と異なり、忠教は国学に通じていた。

藩の最高権力の掌握

藩内における権力拡大の過程では、小松清廉(帯刀)や中山中左衛門などと合わせて、大久保利通・伊地知貞馨(堀仲左衛門)・岩下方平・海江田信義・吉井友実ら、中下級藩士から成る有志グループ、精忠組の中核メンバーを登用する。
ただし、精忠組の中心であった西郷隆盛とは終生反りが合わなかった。
文久2年の率兵上京(後述)時には、西郷の無断東上を責めて徳之島、のち沖永良部島に配流し、藩内有志の嘆願により元治元年(1864年)に西郷を赦免する際も、苦渋の余りくわえていた銀のキセルの吸い口に歯形を残したなどの逸話があるように、のちのちまで両者のあいだには齟齬があった。

中央政界へ進出

文久2年(1862年)、公武合体運動推進のため兵を率いて上京する(3月16日鹿児島発、4月16日京都着)。
朝廷・幕府・雄藩の政治的提携を企図する久光の運動は、亡兄斉彬の遺志を継ぐものとされた。
京都滞在中の4月23日、伏見(現京都府京都市伏見区)の寺田屋に集結した有馬新七ら自藩の尊攘派過激分子を討伐する寺田屋事件を起こす。

朝廷に対する久光の働きかけにより5月9日、幕政改革を要求するために勅使を江戸へ派遣することが決定され、久光は勅使随従を命じられる。
幕府への要求事項として、以下の「三事策」(1.は長州藩、2.は岩倉具視、3.は薩摩藩の各意見を採用したもの)が決められた。

将軍徳川家茂の上洛

沿海5大藩(薩摩藩・長州藩・土佐藩・仙台藩・加賀藩)で構成される五大老の設置

一橋慶喜の将軍後見職、前福井藩主松平春嶽の大老職就任

久光は5月12日、出府に先立って通称を和泉から三郎へと改めた上で、21日に勅使大原重徳に随従して京都を出発、6月7日に江戸へ到着する。
当地において勅使とともに幕閣との交渉に当たり、7月6日に慶喜の将軍後見職、9日に春嶽の政事総裁職の就任を実現させる(文久の改革)。

勅使東下の目的を達成したことで8月21日、久光は江戸を出発、東海道を帰京の途上、武蔵国橘樹郡生麦村(現神奈川県横浜市鶴見区 (横浜市))でイギリス民間人4名と遭遇、久光一行の行列の通行を妨害したという理由で随伴の薩摩藩士がイギリス人を殺傷する生麦事件が起こる。
久光は閏8月6日に京都へ到着、9日に参内して幕政改革の成功を復命した後、23日に京都を発し帰藩する(9月7日鹿児島着)。
なお、イギリス人殺傷の一件は結果的に、翌文久3年(1863年)7月の薩英戦争へと発展する。

公武合体運動の挫折

文久3年(1863年)3月に2回目の上京(3月4日鹿児島発、14日京都着)をするが、長州藩を後ろ盾にした尊攘急進派の専横を抑えられず、足かけ5日間の滞京で帰藩する(18日京都発、4月11日鹿児島着)。
しかし帰藩後も、尊攘派と対立関係にあった久邇宮朝彦親王や近衛忠煕・近衛忠房父子、また、尊攘派の言動に批判的だった孝明天皇から再三、久光は上京の要請を受けた。
そして、長州藩の勢力を京都から追放するべく、薩摩藩と会津藩が中心となって画策し、天皇の支持を得た上で決行された八月十八日の政変の成功後、久光は3回目の上京を果たす(9月12日鹿児島発、10月3日京都着)。

久光の建議によって、朝廷会議(朝議)に参加する資格を有する朝議参預という職が新設された。
12月30日、一橋慶喜、松平春嶽、前土佐藩主山内容堂、前宇和島藩主伊達宗城、会津藩主(京都守護職)松平容保の5名が、朝廷より参預に任じられる。
無位無官だった久光は、翌元治元年(1864年)1月14日、従四位下左近衛権少将に叙任されるのと同時に、参預に任じられた。
こうして、薩摩藩の公武合体論を体現した参預会議が成立する。
しかし、孝明天皇が希望する横浜港鎖港をめぐって、限定攘夷論(鎖港支持)の慶喜と、武備充実論(鎖港反対)の久光・春嶽・宗城とのあいだに政治的対立が生じた。
結果的に久光ら3侯が慶喜(幕府)側に譲歩し鎖港方針に合意したものの、両者の不和は解消されず、参預会議は機能不全に陥り解体、薩摩藩の推進した公武合体運動は頓挫する。
この結果を受けて久光は4月18日、小松帯刀や西郷隆盛らに後事を託して退京する(5月8日鹿児島着)。

倒幕の決断

久光が在藩を続けた約3年間に中央政局は、禁門の変(元治元年7月19日)、第一次長州征伐、将軍進発、安政の五か国条約勅許、薩長盟約の締結(慶応2年1月21日)、第二次長州征伐、将軍家茂の薨去(7月20日)、徳川慶喜(徳川宗家を相続)の将軍就職(12月5日)、孝明天皇の崩御(同月25日)、祐宮睦仁親王(明治天皇)の践祚(慶応3年1月9日)、等々と推移する。
この間、国許にあって久光は、慶応2年(1866年)6月16日から20日にかけてイギリス公使ハリー・パークスの一行を鹿児島に迎えて藩主茂久とともに歓待し、薩英戦争講和以後続く薩摩藩とイギリスのあいだの友好関係が確認された。

慶応3年(1867年)の4回目の上京(3月25日鹿児島発、4月12日京都着)では、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城と四侯会議を開き、開港予定の布告期限が迫っていた兵庫(現兵庫県神戸市)開港問題や、前年9月の再征の休戦(事実上の幕府の敗北)後保留されたままの長州藩処分問題をめぐり、四侯連携のもとで将軍慶喜と協議することを確認する。
しかし、5月14、19、21日の二条城における慶喜との会談では、長州処分問題の先決を唱える(寛典処分を意図する)四侯に対して、慶喜は対外関係を理由に兵庫開港問題の先決を主張した。
同月23、24日の2日間に及んだ朝議の結果は、2問題を同時に勅許するというものだったが、長州処分の具体的内容は不明確なままであり、慶喜の意向が強く反映されていた。
この事態を受けて、慶喜との政治的妥協の可能性を最終的に断念した久光の決断により、薩摩藩指導部は武力倒幕路線を確定する。

病身の久光は8月15日に大坂へ移り、9月15日に帰藩の途に就く(21日鹿児島着)。
10月14日に久光・茂久へ討幕の密勅が下され、また同日の将軍慶喜による大政奉還の奏請を受けて翌15日、朝廷より久光に対し上京が命じられた。
しかし、病のため久光はそれに応じられず、代わって茂久が11月13日、藩兵3000人を率いて鹿児島を出発、途中周防国三田尻(現山口県防府市)において18日、長州藩世子毛利広封と会見し薩長広島藩3藩提携による出兵を協定して、23日入京する。
その後、中央政局は王政復古 (日本)、戊辰戦争へと推移した。

明治維新後

久光は明治維新後も薩摩藩(鹿児島藩)における権力を握り続けたが、政府に出仕していた西郷隆盛や大久保利通らの主導で、明治4年(1871年)7月14日に太政官より廃藩置県が布告されると、鹿児島の久光はこれに激怒、抗議の意を込めて一日中花火を打ち上げさせたという。
旧大名層の中で、あからさまに廃藩置県に対して反感を示したのは、久光が唯一だった。
また、都城県が設置されたことに対して、薩摩国大隈国分断は「長州の陰謀」だと憤怒した。

同年9月に分家し、玉里島津家を創設する。

明治6年(1873年)には上京し、政府に出仕して内閣顧問、翌7年には左大臣となり、旧習復帰の建白を行うが、政府の意思決定からは実質的に排除された。

明治8年(1875年)に左大臣を辞職。
以後、鹿児島で隠居生活を送り、島津家に伝わっていた史書編纂・蒐集に専念した。

また、政府による廃刀令等の文明開化政策に反抗し、生涯髷を切らず、帯刀・和装をやめなかった。

明治六年の政変により下野し鹿児島に帰郷した西郷とは、この時期においても確執があったとされる。
西郷らが蜂起した西南戦争では中立の立場をとり、戦火から逃れるため桜島に一時避難している。

明治20年(1887年)に死去、享年70。
国葬をもって送られたが、東京ではなく鹿児島での国葬となったため、葬儀のためだけに道路が整備され、熊本鎮台から陸軍が派遣された。
玉里家(公爵)は七男島津忠済が継いだ。

墓所は鹿児島県鹿児島市の福昌寺 (鹿児島市)。
鹿児島市照国町鎮座の照国神社に銅像がある。

官職位階履歴

※日付は明治4年までは旧暦。

文久4年(1864年)

1月14日 (旧暦)、従四位下左近衛権少将に叙任。

2月1日 (旧暦)(3月8日)、大隅守兼任。

4月11日 (旧暦)(5月16日)、従四位上左近衛権中将に昇叙転任し、大隅守如元。

明治2年(1869年)

3月3日 (旧暦)、従三位参議に昇叙補任し、左近衛権中将如元。

6月2日 (旧暦)(7月10日)、従二位権大納言に昇叙転任も固辞。

明治4年(1871年)9月13日 (旧暦)、従二位に昇叙。

明治6年(1873年)

5月10日、麝香間祗候となる。

12月25日、内閣顧問に就任。

明治7年(1874年)4月27日、左大臣に就任。

明治8年(1875年)

10月27日、左大臣を辞任。

11月2日、麝香間祗候となる。

明治12年(1879年)6月17日、正二位に昇叙。

明治14年(1881年)7月15日、勲一等旭日大綬章を受章。

明治17年(1884年)7月7日、公爵を受爵。

明治20年(1887年)

9月21日、従一位に昇叙。

11月5日、大勲位菊花大綬章を受章。

[English Translation]