平忠正 (TAIRA no Tadamasa)

平 忠正(たいら の ただまさ、生年不詳 - 保元元年7月28日 (旧暦)(1156年8月15日))は平安時代末期の武将。
平正盛の子、平忠盛の弟。
右馬助。

経歴

兄の忠盛やその子平清盛とは早くから不和であったと伝わる。
藤原頼長に親しく仕えた縁により、保元の乱では崇徳上皇方に与して清盛と戦う。
忠正は源為義と並ぶ上皇方の重鎮として活躍するが、武運つたなく敗北。
しばらくの潜伏の後、平長盛・忠綱・正綱・通正の四子とともに自首し、囚われの身となる。
そして甥の清盛に預けられるが、さしたる助命嘆願もなく親子五人並んであっさりと処刑されてしまった(なおこの際、名前の読みが藤原忠雅と同じであることを憚り、「忠貞」と改名させられたという)。

これは一説に、源氏の勢力減退を目論む清盛が、自分が進んで叔父の忠正を処刑することで、同じく罪人となった源為義をその子源義朝が斬らざるを得ないよう仕向けるための作戦だったといわれている。

子孫

なお後年、戸沢氏・中根正照・服部氏が忠正の子孫を称している。

【戸沢氏】孫衡盛は大和国吉野に居たが、陸奥国岩手郡に下向、戸沢に住して後裔は出羽新庄藩主となる。

【中根氏】寛政系譜の良文流に収める中根氏は、実は保元の乱を避けて三河国道根郷に蟄居した忠正が末男・中根正持(七郎正持)であり末裔の正行が松平清康・松平広忠に仕えて中老となり子孫は江戸幕臣となる。

【服部氏】孫の長光は乱後、母とともに伊賀に逃れて以後は服部を称する。
後裔は江戸幕臣となる。

[English Translation]