平生昌 (TAIRA no Narimasa)

平 生昌(たいらの なりまさ、生没年不詳)は、日本の平安時代中期の公家。
平氏平氏高棟王流贈従三位美作国平珍材の次男。
母は備中国青河郡郡司の女。
同母兄に平惟仲があり、子に平雅康、平以康がある。

大学寮出身の叩き上げで、但馬国・中宮職(藤原定子)大進・備中国・播磨国などを歴任した。
長徳2年(996年)藤原伊周が失脚して大宰権帥に左遷された(長徳の変)際、密かに播磨国から入京したが、生昌はこれを藤原道長に密告した。

長保元年(999年)8月9日 (旧暦)、一条天皇中宮であった藤原定子が敦康親王を懐妊し内裏を退出する際、生昌の邸を行啓先とした
(生家である二条邸が長徳元年(995年)夏に焼失したため。生昌邸が選ばれたのは、兄である惟仲の縁と思われる)。
当時定子に仕えていた清少納言は、この時の様子を『枕草子』第五段『大進生昌が家に、宮の出でさせ給ふに、』に記している。
定子は翌年、同じく生昌邸で媄子内親王を出産し崩御した。

寛弘6年(1009年)、東宮居貞親王(のちの三条天皇)御所への昇殿を許される。
没年は不詳だが、長和5年(1016年)12月にはすでに卒去していたらしい(『日本紀略』長和5年12月10日条)。

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