平田佐次郎 (HIRATA Sajiro)

平田 佐次郎(ひらた さじろう、1842年(天保13年) - 1902年(明治35年))は、三重県四日市市出身の実業家・平田紡績の創設者

経歴
三重郡川越町 旧朝明郡南福崎村の農家 水越佐七の五男として生まれた。

13歳も時・平田家へ奉公・平田佐次郎主人の船の船員・ボーイとなり・18歳で支配人・23歳で500石の伊宝丸を買収船主・江戸四日市間の貨物運搬に従事する。

主人の家・平田家養子になって、平田佐次郎と改名して・兄佐平に伊宝丸を譲り・新たに1400石の福吉丸を購入して、廻漕業に従事する。

海運業から製網業が有利と知り、平田漁網商店その後・製網から綿紡績の平田紡績を創設、平田家を大企業として巨万の富をつくり家業が栄えた。

富洲原村民の福利厚生
道路など公共事業・学校富洲原小学校建設・駐在所建設で私財投入・三重県知事から表彰される。

富田一色村の惣村地所訴訟に隣村・他村に明治時代・東京の裁判所で勝訴する代表として。

富洲原霊園で平田家の巨大な墓に平田佐次郎が眠っている。

平田佐治郎(初代)の家族は、息子は平田佐治郎(2代)を襲名して平田紡績社長をつとめた。
孫の平田佐矩は、平田紡績社長から四日市市長に就任して四日市コンビナートを建設して、経済発展と工業都市四日市を建設した反面・四日市喘息公害問題の負の遺産をつくった。
その弟は暁学園創設者の宗村佐信である。
平田紡績は製網から紡績業を増設した。
その後、戦時中の中島飛行機の軍事工場供出をへて、函館工場・福島工場を建設して拡大したが、昭和60年に製網・紡績の製造事業を中止した。
工場跡地を住宅地に売却して社名変更後、別事業を行っている。

[English Translation]