広津弘信 (HIROTSU Hironobu)

広津 弘信(ひろつ ひろのぶ、1819年 - 1883年)は日本の外交官。
明治初期の日朝外交を担当したことで知られる。
作家広津柳浪の父。

略歴
旧名は俊蔵。
久留米藩の医家であった。
1870年3月、佐田白茅らの外務省調査団(国交樹立のための予備交渉)に同行した。
以降、同年末の吉岡弘毅・森山茂による正規の第1回使節団に参加した。
彼らのもとで朝鮮現地での国交樹立交渉の実務を担当した。

しかし交渉は難航したため、翌1871年4月(旧暦2月)にはいったん帰国した。
旧対馬府中藩・宗義達を外務大丞に任命し朝鮮との交渉にあたらせる策を建言した。
1872年2月には森山とともに宗外務大丞の書契を持ち蒸気船で再び釜山広域市に入港。
以後倭館(かつての対馬藩の公館・居留地)の接収事務を開始した。
しかし蒸気船は攘夷論をとる李氏朝鮮の忌避するところのものであった。
同年のアメリカ軍艦による江華島砲撃事件(辛未洋擾)ともあいまって朝鮮側は態度を硬化した。
結局国交交渉は失敗した。

その後、日本政府黙認のもとでおこなわれていた三井財閥による日朝間の密貿易が1873年発覚した。
朝鮮側は厳しい「禁圧」の姿勢を取った。
広津は、この際掲示されたと伝えられる朝鮮側「伝令書」掲示を日本政府に報告した。
このさいの文言(広津の報告は誇張を含んでおり正確な内容ではなかったらしい)が日本政府内の征韓論建議の直接のきっかけとなった。
しかし広津自身は武力行使に関しては慎重な態度をとった。

家族
作家の広津柳浪の父であり、同じく作家の広津和郎の祖父にあたる。
(ただし和郎の出生時、弘信は死去している)。

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