庄家次 (SHO Ietsugu)

庄 家次(しょう いえつぐ、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武蔵国児玉党(現在の埼玉県本庄市栗崎出身)の武将。
通称は三郎(『武蔵七党系図』では二郎)。
後に備中庄氏の祖となる。

備中庄氏の祖となる経緯
庄三郎右衛門家次は、児玉党本宗家5代目である庄家長の三男として生まれ、本来なら庄氏分家であった武士である。
しかし、家長の嫡子(家次の兄)である庄頼家(児玉党本宗家6代目)が一ノ谷の戦いで若くして戦死した事から、家長によって頼家家の養子として迎えられ、児玉党本宗家7代目を継ぐ事となる。
家長が一ノ谷の戦いにおいて、武功を上げ、恩賞として備中国草壁荘地頭職を与えられた。
家次も備中国(現在の岡山県)の地頭として赴任する事となり、庄氏本宗家の本拠地である児玉郡北部の栗崎館を去る。
そして、そのまま備中に永住し、家次の一族は備中庄氏となった。
結果として北部国境付近にある児玉党(児玉庄氏)本宗家を継ぎ、栗崎の領地を守る事となったのは、家長の四男(家次の弟)である本庄時家である。
彼が本庄氏を名乗る事となる(庄氏分家が児玉党本宗家を継ぐ形となる)。

吾妻鏡における記述
『吾妻鏡』の、建長2年(1250年・13世紀中頃)3月1日条、造閑院殿雑掌の事、において、「本庄三郎左衛門」の名で記載されているのが、文献上での家次の名の初見であり、弟である四郎左衛門尉時家の名も見られる(京都に出向いていたものと見られる)。
これが家次の名が確認できる初めてであり、最後である。
弟である時家に対し、余りにも登場していないが、これは『吾妻鏡』が東国主体の内容である為と考えられ、西日本で活動していた家次は余り確認されていなかったものとみられる。
また、『吾妻鏡』の人名の誤記や混同の多さから考えて、本来は、「庄三郎右衛門」と考えられ、本庄三郎左衛門は誤記と考えられる。
『吾妻鏡』の記述から、家次か時家かが初めて本庄氏を名乗ったものと見られるが、家次が備中庄氏として活動していた以上、本庄氏を初めて名乗ったのは弟の時家と考えられる。

その他
一説に、庄氏本宗家一族が備中国にそのまま土着したのは、稼ぎ・収入の差ともされる。

『吾妻鏡』に「本庄三郎左衛門入道」とある事から、13世紀中頃には出家したものと見られる。

『吾妻鏡』に記載されている本庄朝次は家次の嫡子であり、複数の系図にも、家次→朝次→本庄有次とある。

『武蔵七党系図』には、「家長の子(次男)、本庄二郎左衛門家次」の名で記述されており、諸々の資料の伝承には混乱が見られる。

複数ある系図の一つの記述では、頼家は生きている事になっており、その後の系譜も続いている事になっている。
但し、この系図の信憑性は高いものとは言えない。
家長を庄弘高の嫡子であると記述しているなど、系図の世代にズレが生じている為である。
こうした伝承の誤りを考えた場合、備中庄氏の伝承より児玉庄氏の伝承の方が信憑性をおびてくる。
児玉庄氏の伝承通り、頼家が戦死していたのであれば、猿掛城 (備中国)の2代城主は家長の三男である家次と言う事になる。

頼家が嫡子を作る前に戦死したと言う伝承が正しければ、備中庄氏の系図にある庄頼房なる人物は家次の子息の1人である可能性が生じ、そう考えられる(あるいは系図の埋め合わせの為に架空の人名を記したとも考えられる)。

庄氏の初姓は藤原氏となっているが、これは14世紀中頃以降(鎌倉期以後)に改姓したものであり、本来は有道氏である。
庄氏一族が西日本で活動するに当たり、社会的に有利である藤原氏を名乗ったものであり、それを主張して認めさせ、地位向上を図ったものである。
すなわち後世になって改めた姓である。

[English Translation]