斎藤利行 (SAITOU Toshiyuki)

斎藤 利行(さいとう としゆき、1822年2月2日(文政5年1月11日 (旧暦))- 1881年(明治14年)5月26日)は、幕末の土佐藩家老。
明治政府に出仕して刑部大輔・参議・元老院議官を務めた。
旧名は渡辺 弥久馬(わたなべ やくま)。
同藩士・斎藤利成の子。

来歴・人物

若くして藩主山内豊煕の御側物頭として仕えるが、おこぜ組に加わったことから1843年(天保14年)に反対派によって失脚させられる。
後に吉田東洋の命によって復職し、近習目付、上士銃隊総練教授などを歴任した。
その後、慶応年間には仕置役・家老となる。
1867年(慶応3年)に長崎市で起きた土佐藩士によるイギリス水兵殺害事件では、後藤象二郎とともにイギリス公使ハリー・パークスと交渉して補償問題を解決した。
その他、佐々木高行とともに坂本龍馬とも結んで武器調達に活躍した。

明治維新後は名を「斎藤利行」と改名して、新政府に仕える。
1870年(明治3年)には刑部大輔となり、続いて参議として明治政府の中枢に経ち新律綱領編纂にあたた。
翌年西郷隆盛と木戸孝允の対立から全参議が辞任することになり斎藤もこれに従った。
その後、病気のために一時故郷高知県に戻って静養していたとき、板垣退助が征韓論政変で下野して自由民権運動を起こすために立志社 (明治)を結成した。
東京にいる佐々木の依頼を受けて原轍とともにその切り崩しにあたるとともに高知の反板垣勢力の結集にあたることになる。
前者は一定の成果を上げたものの、後者は結果的に旧佐幕派勢力の復権を招き、佐々木・斎藤も板垣と同類(新政府を作った裏切者)として糾弾されたために失敗に終わった。

1874年(明治7年)に宮内省に出仕して翌年には元老院議官に任じられて海上裁判所設置に尽力する。
だが、1881年(明治14年)に肺病に倒れた。
勲二等旭日重光章を授与されるが、間もなく死去した。
墓所は青山霊園にある。

[English Translation]