新田義貞 (NITTA Yoshisada)

新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代末期の御家人、南北朝時代 (日本)の武将。
正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。

本姓は源氏。
家系は清和源氏の一家系 河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源義家の三男 源義国の子 鎮守府将軍新田義重を祖とする上野国(上州)に土着した新田氏本宗家の8代目棟梁。
父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり)。
官位は正四位下、左近衛中将。
明治15年(1882年)8月7日正一位。

生涯

新田氏(上野源氏)は、河内源氏三代目の源義家の四男・源義国の長子の源義重に始まり、新田荘(にったのしょう、現在の群馬県太田市周辺)を開発した。
しかし、義貞の時代には新田氏本宗家の領地は広大な新田荘60郷のうちわずか数郷に過ぎず、義貞自身も無位無官で日の目を浴びない存在であった。
文保2年(1318年)10月の義貞の売券案が残っているが売主が新田「貞義」と誤記されており、幕府での新田本宗家の地位の低さをあらわしている。

また、義貞の長子義顕の生母を安東氏とする史料があり、これを有力な御内人安東聖秀の娘であるとする説がある。
これが事実とすれば、没落御家人の新田本宗家が得宗家御内人の安東氏 (曖昧さ回避)の娘を娶ったことになる(または、聖秀の一族の上野国甘羅令(甘楽郡地頭)の安藤重保(左衛門少尉)の娘の説もある)。
霜月騒動で上野国の守護が安達氏から得宗家へと替わり、上野でも得宗専制の影響が強くなってきたと見られる。
必死になって権力にすがり付いて衰退する新田本宗家を立て直そうとする父・朝氏と義貞の涙ぐましい努力が垣間見える。
また、その衰退に伴って新田本宗家の一族に対する影響力も下降線をたどっていた。
元亨2年(1322年)に、一族の岩松氏系の岩松政経と本宗系に近い大舘氏の大舘宗氏が用水争いを起こした際、鎌倉幕府に裁定を持ち込んでいる。
おそらく義貞の裁定では収まらなかったのであろう。

挙兵から鎌倉攻略まで

元弘元年(1331年)から始まった元弘の変では、大番役も兼ねて鎌倉幕府に従い、河内国で挙兵した楠木正成の千早城の戦いに参加している。
しかし、義貞は病気を理由に無断で新田荘に帰ってしまう。
これを理由のひとつとして、幕府は新田荘に対し多大の軍費を要求し、横暴的な取立てを行っている。
これが、義貞が幕府に背き挙兵を決意する直接のきっかけになったとも考えられる。
『太平記』と『梅松論』では、病気と称して新田荘に逼塞していた義貞が、軍費の取立てのため新田荘の検分に来た幕府の徴税使・金沢親連 (金沢流)(幕府引付奉行、北条氏得宗の一族、紀氏とする説もある)と黒沼彦四郎(御内人)を捕えて、親連を幽閉し、彦四郎を斬ったことで、挙兵を決意したと記してある。
両使が新田氏に銭6万貫を5日のうちに上納せよと命じ、これに義貞が反発したという。
また、元弘の変で出兵中、ひそかに護良親王から北条氏打倒の令旨を受け取っていたとの説もある。

元弘3年/正慶2年(1333年)5月8日 (旧暦)、後醍醐天皇の呼びかけに応え、生品神社に一族を集め鎌倉幕府討伐のため挙兵。
最初に集まった軍勢はわずか150騎にすぎなかったと伝えられている。
当初は利根川を超えて、一族が多数いる越後国方面へ進軍する予定であったが、弟の脇屋義助に諭されて鎌倉攻めを決意したと伝えられる。
越後の一族も加わり、新田軍は東山道を西へ進み、上野国守護所を落とす。
そして、利根川を越えた時点で足利高氏(後に足利尊氏)の嫡子千寿王(後に足利義詮)の軍と合流した。
北条氏と累代の姻戚関係にある外様御家人最有力者である足利高氏の嫡男が加わったことにより、周辺の御家人も加わり、新田軍は数万規模に膨れ上がったと言われる。

さらに新田軍は鎌倉街道を進み、入間川 (埼玉県)を渡り小手指原(埼玉県所沢市小手指町付近)に達し、桜田貞国・金沢貞将率いる幕府軍と衝突する(小手指原の戦い)。
兵数は幕府軍の方が勝っていたが、同様に幕府へ不満を募らせていた河越氏ら武蔵の御家人の援護を得て新田軍は次第に有利となる。
そして、幕府軍は分倍河原(東京都府中市 (東京都))まで退却する。
幕府軍は再び分倍河原に陣を張り、新田軍と決戦を開始する(分倍河原の戦い (鎌倉時代))。
新田軍は一度は大敗するが、翌日には援軍に駆け付けた三浦氏一族の大多和義勝らの兵を合わせて幕府軍を撃破した。
恐らく足利高氏による六波羅探題滅亡の報が到達しており、幕府軍の増援隊の寝返りなどがあったのではないかとも考えられる。
翌日、多摩川を渡り、幕府の関所である霞ノ関(東京都多摩市関戸)にて幕府軍の北条泰家と決戦が行われ、新田軍が大勝利を収めている(関戸の戦い)。

藤沢(神奈川県藤沢市)まで兵を進めた義貞は、軍を化粧坂(けわいざか)切通し方面、極楽寺坂切通し方面と巨副呂坂切通し方面に分けて鎌倉を総攻撃。
極楽寺坂切通しの突破を困難と判断した義貞は、干潮に乗じて稲村ヶ崎から強行突破し、幕府軍の背後を突いて鎌倉へ乱入。
北条高時の一族を北条氏菩提寺の東勝寺で自害させ、挙兵からわずか15日で鎌倉幕府を滅亡に導く。
しかし、鎌倉陥落後、千寿王を補佐するために足利高氏が派遣した細川和氏・細川顕氏兄弟らと衝突し、居場所を失った義貞は上洛する。

建武政権下の義貞

建武の新政においては、義貞は鎌倉攻めの功により1333年(元弘3年)8月5日、従四位上に叙位。
左馬助に任官。
上野介、越後守等を兼任。
同年10月には、播磨介を兼任。
この年、武者所の長たる頭人となる。
また、上野国・越後国両国守護を兼帯。
翌年、播磨守と同国守護も兼帯。
以後、左衛門佐、左兵衛督などの官職を歴任。

建武 (日本)2年(1335年)に信濃国で北条氏残党が高時の遺児・北条時行を擁立し、鎌倉を占領する中先代の乱が起きると、足利尊氏は後醍醐天皇の勅状を得ないまま討伐に向かう。
尊氏は鎌倉に本拠を置いて武家政権の既成事実化をはじめる。
尊氏は義貞を君側の奸であるとしてその追討を後醍醐に上奏する。
しかし、逆に後醍醐は義貞に尊氏追討令を発し、義貞は尊良親王を奉じて東海道を鎌倉へ向かう。
義貞は弟脇屋義助とともに矢作川の戦い(愛知県岡崎市)、手越河原の戦い(静岡県静岡市駿河区)で足利直義・高師泰の軍を破る。
しかし、鎌倉から出撃した尊氏に箱根・竹ノ下の戦い(静岡県駿東郡小山町)で撃破され、尾張国に敗走した後、京へ逃げ帰る。

翌建武 (日本)3年(1336年)正月、入京した尊氏と京都市外で再び戦い、奥州より上ってきた北畠顕家と連絡し、京都で楠木正成らと連合して足利軍を駆逐する事に成功。
再入洛を目指す足利軍を摂津国豊島河原(大阪府池田市)で破る。
この功により同年2月、正四位下に昇叙。
左近衛中将に遷任。
播磨守を兼任。
さらに、九州へ奔る尊氏を追撃するものの、播磨国の白旗城で篭城した赤松則村(円心)に阻まれて断念。
尊氏は九州を平定し海路東上してくるが、義貞は白旗城に篭城する赤松軍を攻めあぐね、時間を空費する。
楠木正成らと共同して戦った湊川の戦い(兵庫県神戸市)において義貞は和田岬に陣を構えて戦うが、足利水軍の水際防衛に失敗する。
その後、西宮(兵庫県西宮市)で再起をはかるが京へ敗走する。

北陸落ちと最期

ファイル新田義貞戦没伝説地
湊川の戦いの後、比叡山に逃れた宮方は、足利方に奪還された京都を取り戻すために賀茂糺河原などに攻め下るが阻まれる。
後醍醐天皇は足利方との和議を進め、義貞を切り捨てて比叡山から下山しようとした。
しかし、義貞の一族家臣堀口貞満が後醍醐に、「当家累年の忠義を捨てられ、京都に臨幸なさるべきにて候はば、義貞始め一族五十余人の首をはねて、お出であるべし」と奏上し、直前に阻止した。
後醍醐天皇は朝敵となる可能性の出た義貞に対し、皇位を恒良親王に譲り、恒良親王と尊良親王を委任し官軍であることを担保することで決着し下山。
義貞は両親王と子の義顕、弟の脇屋義助とともに北陸道を進んだ。
折からの猛吹雪で凍死者を出したり足利方の執拗な攻撃に大迂回を余儀なくされたりしながらも越前国金ヶ崎城(福井県敦賀市)に入る。
しかし、まもなく高師泰・斯波高経率いる軍勢により包囲される。
義貞、義助は杣山城(福井県南条郡南越前町)に脱出し、杣山城主瓜生保と協力して金ヶ崎城の包囲陣を破ろうとするが失敗する。
金ヶ崎城は延元2年/建武4年(1337年)3月6日落城し、尊良親王、義顕は自害し、恒良親王は捕らえられ京へ護送される。

同年夏になると義貞は勢いを盛り返し、鯖江合戦で斯波高経に勝利し、越前府中を奪い、金ヶ崎城も奪還する。
翌延元3年/建武5年(1338年)閏7月、武家方に寝返った平泉寺衆徒が籠もる藤島城を攻める味方部隊を督戦に向かう。
しかし、越前国藤島の燈明寺畷(福井県福井市新田塚)で黒丸城から加勢に向かう敵軍と偶然遭遇し戦闘の末戦死した。
『太平記』においては、乗っていた馬が矢を受けて弱っていたため堀を飛び越えられず転倒し、左足が馬の下敷きになったところに流れ矢を眉間に受け、自分で首を掻き切ったと記述されている。
義貞がここで戦死したことは史実であるが、この死に方は事実とは考えられない。
『史記』の項羽の最期や『平家物語』の源義仲の最期の記述にヒントを得た『太平記』作者の創作であると思われる(義仲の最期も『平家物語』作者の創作である可能性が高い)。
首級は京都に送られ、鎌倉幕府滅亡時に入手した清和源氏累代の家宝である名刀鬼切もこの時足利氏の手に渡ったという。
年月日不明ながら、正二位を贈位。
大納言の贈官を受ける。

なお、江戸時代の明暦2年(1656年)にこの古戦場を耕作していた百姓嘉兵衛が兜を掘り出し、領主である福井藩主松平光通に献上した。
象嵌が施された筋兜で、かなり身分が高い武将が着用したと思われた。
福井藩軍法師範井原番右衛門による鑑定の結果、新田義貞着用の兜として越前松平家にて保管された。
明治維新の後、義貞を祀る藤島神社を創建した際、越前松平家(松平侯爵家)より神社宝物として献納された。
兜は国の重要文化財に指定されている。

法名:源光院殿義貞覺阿彌陀佛尊位。

墓所:福井県坂井市の長林山称念寺。

評価

同時代では、南朝 (日本)を主導していた北畠親房との確執があったとも言われる。
親房の『神皇正統記』では「上野国に源義貞と云ふ者あり。高氏が一族也」と足利尊氏より格下の扱いを受け否定的に書かれている。
また、『増鏡』には、「高氏の末の一族なる、新田小四郎義貞といふ者、今の高氏の子四つになりけるを大将軍にして、武蔵国よりいくさを起してけり」と書かれている。
通称の小太郎を小四郎と、挙兵地の上野国を武蔵国と、それぞれ誤って述べられているばかりか、足利千寿王を鎌倉攻めの大将に立てたことにされてしまっている。
これは、新田氏の祖である源義重が源頼朝の鎌倉幕府の創設に非協力的であったため、幕府成立後には源義国の系統を束ねる棟梁としての地位が義重の弟源義康の子足利義兼の系統に変移し、新田氏のみならず源氏の系譜を持った武士をその支配下に置くという慣例が定着したためであるという説がある。
実際に新田一族の中でも足利氏を武家の棟梁と考える者もいた。
新田一族でも本宗家から遠い山名氏などは、義貞が挙兵した際、足利千寿王(義詮)の指揮下に入ってその後も足利方についている。

また、室町時代に成立した軍記物である『太平記』では、知略を巡らす智将として装飾的に描かれる楠木正成に対して、義貞には作者の共感が薄く、優柔不断で足利尊氏との棟梁争いに敗れる人物として描かれていると指摘される。
その一例として、義貞が摂津豊島河原で尊氏を破り九州へ敗走させた後、勾当内侍との別れを惜しんで追撃を怠ったため、尊氏が勢力を盛り返し湊川で官軍を破って入京したという、義貞のだらしなさを強調する記述がある。

その一方、『梅松論』には次のような記述がある。
“箱根の戦いに負けた新田軍の兵士が天竜川にかかる橋を切り落とそうとした際、「橋を落としてもまた架けるのはたやすい。新田軍は橋を切り落とし慌てて逃げたと言われるのは末代までの恥となる」と言い、土地の者に橋の番を頼んで兵を引いた。
その後追撃してきた足利軍の将兵がこの発言を聞き「弓矢取る家に生まれたものは誰でも義貞のようにありたいものだ」と賞賛した”。

明治維新から戦前にかけては、皇国史観のもと、「逆賊」足利尊氏に対して後醍醐天皇に従った忠臣として楠木正成に次ぐ英傑として好意的に評価され、講談などで物語化された。
戦後になると、一東国武将に過ぎなかった者が能力以上の大任を与えられた凡将との見方が現れた。
戦略家としては凡庸であり愚将であると評価する意見もある。
しかし、『太平記』の物語描写のみからの評価を疑問視し、尊氏との人望の差はそもそも先祖からの家格の差が大きいことや、短期間で鎌倉を陥落させ、圧倒的な実力差があった尊氏を一時的にせよ撃破するなどの点から、武将としての資質を評価する意見もある。

また、群馬県の郷土かるたである上毛カルタでは「歴史に名高い新田義貞」で親しまれている。

勾当内侍

軍記物の『太平記』では、九州へ落ちた尊氏を追討せよとの命を受けた義貞が、後醍醐天皇より下賜された女官である勾当内侍との別れを惜しみ時機を逸したとのエピソードが記されている。
勾当内侍とは内侍司の役職の1つで、後醍醐天皇に仕えた一条経尹の娘をさす。
年代などから実在は疑わしく架空の人物と考えられている。
太平記では天皇の許しを得て義貞の妻となり、義貞は内侍との別れを惜しみ尊氏追討の機会を逃したと記されている。
この事から義貞は皇国史観などでは南朝に殉じた武将として称えられる一方で、忠臣の楠木正成を死に追いやった張本人として厳しい評価もなされた。
内侍は義貞の戦死を聞いて琵琶湖に投身した、あるいは京都または堅田(滋賀県大津市)で義貞の菩提を弔ったなどの伝説が残されている。
墓所と伝えられるものも複数存在する。

稲村ヶ崎の太刀

鎌倉攻撃の際に、大仏貞直の守る極楽寺切通しの守りが固く、さらに海岸は北条方の船団が固めていた。
義貞が稲村ヶ崎で黄金造りの太刀を海に投じ竜神に祈願すると、潮が引いて干潟が現れて強行突破が可能になったという話が『太平記』などに見られる。
この話は文部省唱歌にも唄われた。

なお、『太平記』では、この日を元弘3年5月21日としている。
1915年に小川清彦 (天文学者)がこの日前後の稲村ヶ崎における潮汐を計算したところ、同日は干潮でなく、実際には幕府軍が新田軍が稲村ヶ崎を渡れないと見て油断したところを義貞が海水を冒して稲村ヶ崎を渡ったとする見解を出した。
これに対して、1993年になって石井進 (歴史学者)が小川の計算記録と当時の古記録との照合から、新田軍の稲村ヶ崎越え及び鎌倉攻撃開始を干潮であった5月18日午後とするのが妥当であり、『太平記』が日付を誤って記しているとする見解を発表している。

銅像・遺品・碑

群馬県太田市世良田町の東毛歴史資料館前に銅像が建てられている。

東京都府中市 (東京都)の分倍河原駅(京王電鉄京王線・東日本旅客鉄道南武線)前ロータリーにも騎馬像がある。

遺品として、前述の兜がある。
出土地には藩主松平光通により「新田義貞戦死此地」の碑が建てられ、1924年に「燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」の名称で国の史跡に指定されている。
「新田塚」という地名も残っている。

群馬県太田市新田反町町896にある反町薬師(真言宗 瑠璃山 妙光院 照明寺)は、新田義貞の挙兵時の屋敷跡と伝えられ、「反町館跡」とも呼ばれる。
館跡は「新田荘遺跡」の一部として2000年に国の史跡に指定されている。

子孫

室町時代を通じて新田氏は「朝敵」「逆賊」(いずれも北朝 (日本)から見て)として討伐の対象となった。

義貞の直系では、応永年間に義宗の子・新田貞方(義邦)が捕縛され、長子の新田貞邦と共に鎌倉で処刑されて断絶したという。
しかし、貞方の諸子の内堀江貞政は堀江氏と称し、武蔵国稲毛に逃れた。
貞政の子孫は後北条氏に仕えた。
さらに、もうひとりの子の中村貞長は陸奥に逃れ、中村氏 (仙台藩)と称し、伊達氏に仕えた。
庶家は藤沢氏などが出て現存している。
さらに、義宗の庶子とする新田宗親(親季)もひっそりと在続しているという。

その一方、一族の岩松満純(『系図纂要』等では義宗と岩松満国の妹との間の子とするほか、出自に諸説ある)も義宗の子と自称して、岩松氏の養子に迎えられたと自称した。
満純の子孫である岩松氏礼部家は、岩松氏の別流京兆家との争いを勝ち抜き、新田氏の故地である新田金山城を本拠とした。
しかし、戦国時代 (日本)には岩松氏は重臣の横瀬氏に下克上されて没落した。
新田一族の世良田氏・得川氏の後裔と称する徳川家康が関東に入部したとき、岩松氏の当主岩松守純が召し出されて新田氏の系図を求められた。
しかし、拒否したため、守純は家康の直臣となるも禄高はわずか20石を与えられただけであった。
岩松氏は守純の孫岩松秀純の代に、表面上は新田宗家として交代寄合の格式を与えられた。
しかし、新田氏を姓とすることは許されず、禄高もわずか100石加増されただけで、交代寄合としては最低レベルの120石を与えられただけであった。
江戸時代、岩松氏は交代寄合に準ずる家(交代寄合衆四州に準ずる家)として細々と続いた。

また、岩松氏の執権で戦国時代 (日本)に主家を下克上した横瀬氏(由良氏)も新田政義・義貞・義宗の子孫と自称し、明治維新後に新田氏に復姓している。

明治維新後に岩松氏、由良氏ともに明治政府に義貞の子孫として認定され、新田氏に復姓した。
いずれが新田氏の嫡流かを巡って争った末、岩松氏が嫡流と認められ、華族として男爵に叙されている。

女系では千葉氏胤室となった娘が氏胤との間に千葉満胤を儲けており、満胤以降の千葉氏宗家にその血統を伝えている。

[English Translation]