本多猪四郎 (HONDA Ishiro)

山形県東田川郡朝日村 (山形県)(現・鶴岡市)

本多 猪四郎(ほんだ いしろう、1911年5月7日 - 1993年2月28日)は日本の映画監督。
数々の東宝特撮を撮った。

なお名の読みは、「いのしろう」とした書が多く出版されており、また本人もニックネームで「いのさん」「いのしろさん」などと呼ばれることが多かったが、本人の名の正しい読みは「いしろう」。

経歴

山形県東田川郡朝日村 (山形県)(現・鶴岡市)出身。
日本大学芸術学部映画学科卒業後、1933年、PCL(東宝の前身)に入社。
山本嘉次郎や成瀬巳喜男の助監督につく。
山本門下の黒澤明、谷口千吉は親友である。
入社後3度徴兵された。
特に最初に入営した歩兵第一連隊では将校が二・二六事件を起こした。
そのため事件後部隊は満洲に送られ、通常2年ですむ現役が長引いた。
復帰してもすぐ中国大陸に召集され、終戦まで8年間も大陸の戦線で軍隊にいた。
そのため、本来は山本門下の3人のうち最も先輩だったにもかかわらず黒澤(1943年『姿三四郎 (映画)』で初監督)、谷口(1947年『銀嶺の果て』)に対して1952年、『青い真珠』で初監督と監督昇進が大幅に遅れた。
『太平洋の鷲』以降円谷英二とのコンビで多くの特撮映画を監督した。
1954年『ゴジラ (1954年の映画)』は全米で大ヒットを記録。
一躍、世界に名を知られる映画監督となる。
1957年『地球防衛軍 (映画)』はMGM配給、1959年『美女と液体人間』、1959年『宇宙大戦争』、1961年『モスラ』はコロムビア映画の配給、1962年『キングコング対ゴジラ』と1967年『キングコングの逆襲』はユニバーサル映画配給、1965年『怪獣大戦争』と1966年『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』はパラマウント映画配給で全米公開された。
彼のその作品の殆どが海外で公開された。

1975年の『メカゴジラの逆襲』を最後に監督作品はない。
以後は『影武者 (映画)』以後の黒澤の映画を支えた。
その墓には次のような言葉を刻んだ碑が立っている。
「本多は誠に善良で誠実で温厚な人柄でした 映画のために力いっぱいに働き十分に生きて本多らしく静かに一生を終えました 平成五年二月二十八日 黒澤明」。
また彼を師とする大林宣彦監督による『異人たちとの夏』にカメオ出演したこともある。

また没後に前述の黒澤組にいた関係で交友があった米田興弘監督の『モスラ (1996年の映画)』と大林監督の『水の旅人 侍KIDS』(本作は本多に捧げられた特撮映画)の2作品で主人公の少年の祖父の肖像として本多監督の肖像が出演している。

作風

劇映画の処女作『青い真珠 (映画)』における水中撮影の多用から、黒澤明の演出補という形で参加した『夢 (映画)』、『八月の狂詩曲』のハイビジョン合成の導入に至るまで、一貫して撮影技術、映画効果としての“特撮”に関わり続けた映画監督である。
その一方、メロドラマ、サラリーマン喜劇、歌謡映画など幅広い作品がある。
黒澤明が自分の作品に対して予算や時間のオーバーも辞さず、テーマや納得できる映像を追求した芸術家タイプだった。
それに対して、本多の作品は会社の求める企画を予算や時間を守って仕上げる職人タイプであった。
『ゴジラ』もそうした会社から提示された企画の1つである。
そんな黒澤と本多の違いを表現した言葉にこんなものがある。
「“飯を作れ”というと、黒澤は食べきれないほどのフルコースを用意する。
本多は綺麗に重箱に詰めてくる」

演出は概して淡々として破綻がなく堅実である。
特撮映画では最大の見せ場である特撮シーンに水を差すことなく、あくまで一歩下がった位置を守っている。

土屋嘉男によると、警察官が避難民の交通整理をしているシーンに対して黒澤明が「本当ならあんなところで交通整理せずに逃げちゃうだろう」と言ったが、それに対して「警官はああでなきゃいけないんだ」と答えたという。

本多監督が特撮映画の演出でこだわったのは、超常現象を目の当たりにしての、演技者の目線の統一だった。
俳優を決める際には、「子供が見る映画だからといって、真剣に演じられない人は私の映画には出てもらわなくて結構」と述べ、徹底したリアリズムを心がけた。
佐原健二によれば、俳優の演技に関しては、特撮主体の映画で見られがちなオーバーアクションを極力避けた。
あくまで抑えた自然体で演じるよう指導されたという。

現場では終始にこやかであり、スタッフや俳優を怒ることなどは一度もなかったという。
性格のきわめて温厚であることは関係者に異論がない。
また、演技指導に関しては、積極的に自ら模範演技をしてみせ、プロの俳優はだしであったという。

[English Translation]