東久邇宮稔彦王 (Prince Higashikuninomiya Naruhiko)

東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年(明治20年)12月3日 - 1990年(平成2年)1月20日)は、日本の第43代内閣総理大臣(在任1945年8月17日-1945年10月9日)。
元皇族。
陸軍軍人。
皇族で唯一の、かつ戦後初の内閣総理大臣。
階級は陸軍大将。
位階は従二位、勲等金鵄勲章は菊花章功一級。

第二次世界大戦後、敗戦処理内閣として憲政史上最初で最後の皇族内閣を組閣した。
連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の解体、復員の処理を行い、一億総懺悔を唱えた。
ただし、連合国軍最高司令官総司令部の民主化方針についてゆけず、歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職した。

戦前

久邇宮朝彦親王の九男として1887年(明治20年)に誕生。
1906年(明治39年)に東久邇宮の宮号を賜り一家を立てた。
内親王の降嫁先確保のための特例措置であった。
大日本帝国陸軍に入り、陸軍士官学校 (日本)・陸軍大学校を卒業。
1915年(大正4年)に予定どおり明治天皇の第9皇女稔彦王妃聡子内親王と結婚。
1920年(大正9年)にフランスに留学し、フランス陸軍大学を卒業。
卒業後もパリでの愛人との生活に耽溺し、たびたびの帰国命令を拒み続けた。
結局、大正天皇の崩御と大葬を契機に、おりからロンドンに留学中だった秩父宮雍仁親王がパリに乗り込んで直談判し、ようやく帰国させた。
帰国した時には皇族のなかでも自由主義者として知られるようになっていた。

その後、第2師団 (日本軍)長・第4師団 (日本軍)長・陸軍航空本部長を歴任。
日中戦争では第2軍 (日本軍)司令官として華北に駐留する。
太平洋戦争時は防衛総司令部・陸軍大将であった。
日米開戦直前の1941年(昭和16年)、第3次近衛内閣総辞職を受け、後継内閣総理大臣に名が挙がる。
皇族を首相にして内外の危機を押さえようとする構想であったが、皇室に累を及ぼさぬようにということで木戸幸一内大臣の反対によりこの構想は潰れた。
戦局が不利になると和平を唱え、東條英機に反対する立場に回った。

留学の経験から欧米と日本の技術力差を感じた東久邇宮は、遅れをとっていたアジアの技術力の向上を目指して興亜工業大学(1942年(昭和17年)設置、のち千葉工業大学)等の教育機関の創設に携わった。
特に同大学の航空工学科(戦後GHQにより閉科される)・機械工学科の設置に心血を注いだとされる。

戦後

1945年(昭和20年)8月17日、戦後最初の首相となり東久邇宮内閣を組閣。
現役の陸軍大将として陸軍大臣を兼務した。
降伏文書の調印、武装解除・軍部解体、民主化など、敗戦処理全般を主たる任務としてこなしたが、一方で旧来の政治体制の大規模な変革までは考えていなかった。

これに対して、10月4日GHQから「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書」を突き付けられ、窮した内閣は翌日総辞職した。

1947年(昭和22年)10月14日、稔彦王も11宮家51名の皇族の1人として臣籍降下し、以後は東久邇稔彦(ひがしくに なるひこ)と名乗った。
その後の生涯は波乱に満ちたものであった。
最初に新宿に闇市の食料品店を開店したが売上が全く伸びず、その後喫茶店の営業や宮家所蔵の骨董品の販売などを行ったがいずれも長続きしなかった。

1950年(昭和25年)4月15日に禅宗系の新宗教団体「ひがしくに教」を開教したが、同年6月、元皇族が宗教団体を興すことには問題があるとして法務府から「ひがしくに教」の教名使用の禁止を通告された。
また、東京都からも宗教法人として認可されなかった。
このため、任意団体のまま実質解散となった。
その後もいろいろな事業を行なうものの、いずれも成功はしなかった。

1960年(昭和35年)、日米安全保障条約の改定に際して、同じ首相経験者の石橋湛山、片山哲とともに岸信介首相(当時)に退陣を勧告している。

1964年(昭和39年)4月29日、賜賞杯。

1971年(昭和46年)には桟勝正が創設した日本文化振興会の初代総裁になる(桟勝正は初代理事長)。

晩年には増田きぬ(自称:東久邇紫香)なる女性に戸籍を乗っ取られる事件が起こった。

1990年(平成2年)1月20日に102歳で他界した。
これにより、生年月日の記録のある世界の首相経験者としては最も長命かつ100歳を超えて他界した人物(後者は2人おり、もう1人はオランダのヴィレム・ドレース(enWillem Drees、1886年7月5日 - 1988年5月14日))であるとしてギネス・ワールド・レコーズにもその名が掲載されている。
同時に記録の確かな日本の皇族では最高齢の記録である。
没後、特例として豊島岡墓地に葬られた。

世界連邦建設同盟(現、世界連邦運動協会)会長を務めた。

内閣総理大臣

日本がポツダム宣言を受諾することを昭和天皇が国民に伝えた翌々日の1945年8月17日、東久邇宮が内閣総理大臣に任命された。
日本の降伏に納得しない陸軍の武装を解き、ポツダム宣言に基づく終戦にともなう手続を円滑に進めるためには、皇族であり陸軍大将でもある東久邇宮がふさわしいと考えられたためであり、昭和天皇もこれを了承した。

副総理格の国務大臣(無任所)には国民的に人気が高かった近衛文麿、外務大臣 (日本)には重光葵、大蔵大臣には津島寿一が任命された。
また海軍大臣には米内光政元首相がみたび就任した。
陸軍大臣は任命が内定していた下村定陸軍大将が帰国するまでの間(8月17日 - 8月23日)東久邇宮が兼任した。

新聞表記では、皇族出身の首相を「東久邇首相宮(ひがしくにしゅしょうのみや)」と記した。

日本の降伏が告知されたものの依然として陸海軍は内外に展開しており、東久邇宮内閣の第一の仕事は連合国の求める日本軍の武装解除であった。
この目的のため、東久邇宮は旧日本領や占領地に皇族を勅使として派遣し、現地師団の説得に当たらせている。
また、連合国による占領統治の開始が滞りなく行われるように、受け入れ準備に万全を期すことも重要な任務としてこれを達成した。

在任中の東久邇宮の発言として特に有名なものは、9月5日に国会で行われた施政方針演説の以下のくだりである。

このいわゆる「一億総懺悔論」が東久邇宮首相の主要な政治理念とみなされた。
ある意味では国家首脳部の戦争責任を曖昧にする論理と言える。
すでに敗戦直前の時期に内務省情報局から各マスコミに対して次ぎの通達がなされた。
「終戦後も、開戦及び戦争責任の追及などは全く不毛で非生産的であるので、許さない。」
また、敗戦後、各省庁は、占領軍により戦争責任追及の証拠として押収されるのを防ぐため、積極的・組織的に関係書類の焼却・廃棄を行っている。

一方でGHQは、指導命令・新聞発行停止命令などを使い「一億総懺悔論」の伸張を抑え、日本の戦争犯罪を当時の政府・軍のトップに負わせることを明確にすべく極東国際軍事裁判の準備にとりかかっている。

首相は、政治犯の釈放や言論・集会・結社の自由容認の方針を組閣直後に明らかにし、選挙法の改正と総選挙の実施の展望も示した。
しかしながら内務省 (日本)の反対により政治犯釈放は実現せず、その民主化を阻害する姿勢に対し、GHQから1945年10月4日に「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書」を突き付けられ、治安維持法・特別高等警察等の廃止、政治犯・思想犯の釈放、自由化・民主化に抵抗する内務省幹部の更迭などを命じられた。
内務大臣 (日本)山崎巌は治安維持法なしでは治安維持に責任が持てないとして辞意を表明し、首相もこれを支持するかたちで内閣は翌日総辞職した。

評価

総理在任期間は54日と最短であるものの、玉音放送の時点では戦争継続を唱える軍人も少なくなかったり(宮城事件参照)、同じ皇族の梨本宮も逮捕されるという非常に困難な時期に総理となったわけで、東久邇宮稔彦首相でなければこの急場を凌げなかったとも言われる。
十数日で国内を「降伏」で統一し、上陸してきたGHQに誰も危害を加えないようにし、速やかに日本の武装を解除したことを実績として評価できる。

一億総懺悔論に見られる東久邇宮の考え方は、過去の政治指導者こそが責任を負うべきとの重光外相の考え方とは対照的であった。
結局、重光外相は、こうした意見の相違もあり辞任している。

家族

父:久邇宮朝彦親王

母:寺尾宇多子

兄弟:男子 - 賀陽宮邦憲王 - 久邇宮邦彦王 - 梨本宮守正王 - 多嘉王 - 暢王 - 男子 - 朝香宮鳩彦王 - 稔彦王(女子省略)

妻:東久邇聡子

子:

盛厚王(1917年 - 1969年)

師正王(1918年 - 1923年)

粟田彰常(1920年 - 2006年)

- 1940年10月25日、臣籍降下し粟田侯爵となった。

多羅間俊彦(1929年 -)

- 1947年、多羅間キヌの養子となりブラジルに移住。

その他

「ひがしくに教」は解散したはずであるが、なぜか近年になって宗教法人として復活している。

埼玉県さいたま市岩槻区上野にある「龍海寺」という寺院が「創立者:東久邇宮稔彦」「開祖:小原龍海」として運営されているが、どのような繋がりがあるのかは不明である。

エピソード

学習院初等科の同期生に、有栖川宮栽仁王、北白川宮成久王、北白川宮喜輝王(のちに臣籍降下し侯爵小松輝久)、朝香宮鳩彦王がいた。
また、のちの小説家里見弴もいて親友となる。

陸軍士官学校では、「敵中横断三百里」で人気を呼ぶ小説家山中峯太郎が一級上にいて、その影響から内田魯庵訳のレフ・トルストイの『復活 (小説)』を読み、物議をかもした。
これが明治天皇の耳に達してしまい、臣籍降下まで検討された。

陸軍大学校在学中に明治天皇に陪食を命じられたが、下痢を理由にこれを断り、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)に叱責された。
明治天皇に臣籍降下を直訴したが、天皇は「年寄りを困らせるものではない」と取り合わなかった。

フランス留学前に自動車の運転を覚えていたが、当時の日本では運転は匹夫野人のすることで、皇族がハンドルを握ることなどもってのほかとされていた。
北白川宮成久王は滞仏中に運転を覚え、「一度、稔彦王に腕前を見てほしい」とのことで一緒にドライブに行ったが、成久王の腕前は怪しく「あなたはまだ危ないからおやめなさい。
よほど安全な広い通りならいいが、お気をつけになった方がいい」と忠告した。
しかし成久王は聞き入れず、1923年4月1日に「ノルマンディー海岸の避暑地ドーヴィルまで泊りがけでドライブに行かないか」と誘った。
稔彦王は「あなたの運転は、失礼ですが、まだ十分でないからお止めなさい。
私はイギリスに行く約束があるから」と断ってロンドンに向かった。
そこで成久王はドライブの相手を同じく留学中の朝香宮鳩彦王に変え、同日朝に妃の成久王妃房子内親王やフランス人の運転手等と共にドライブに出発した。
途中で鳩彦王を拾いエヴルーで昼食をとったあと、成久王がハンドルを握った。
ペリエ・ラ・カンパーニュの村から遠くない地点で前の車を追い抜こうとした際に、スピードの出し過ぎで車は大きく横に滑って道路を飛び出し、路傍のアカシアの大木に衝突した。
この事故で成久王とフランス人運転手は即死、房子内親王と鳩彦王は重傷を負った。
稔彦王は、滞在中のロンドンのホテルで通信社からの連絡でこの事故を知り、翌日フランスへ戻り、現地で成久王の遺体と対面した。

フランス留学中に、画家のモネについて絵筆をとった。
モネに親友のジョルジュ・クレマンソーを紹介され親交を深めた。
フィリップ・ペタン元帥やクレマンソーと会見した時に、両人より「アメリカが日本を撃つ用意をしている」との忠言を受け、帰国後、各方面に日米戦争不可避論を説いて回ったが、西園寺公望以外は誰も耳を傾ける者はいなかった。
日米開戦前夜に東條英機陸軍大臣にクレマンソーの忠言を披露したが、東條は「坐して亡国になるよりは、戦うほかない」と聞き入れなかった。

[English Translation]