森鴎外 (MORI Ogai)

森 鷗外(もり おうがい、文久2年1月19日 (旧暦)(1862年2月17日)- 大正11年(1922年)7月9日)は、明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、劇作家、帝国陸軍軍医、官僚(高等官一等)。
軍医総監(中将相当)・正四位・勲二等・功三級・医学博士・文学博士。
第一次世界大戦以降、夏目漱石と並ぶ文豪と称されている。
本名、林太郎(りんたろう)。
石見国津和野(現・島根県津和野町)出身。
東京大学医学部 卒業。

大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツで4年過ごした。
帰国後、訳詩編『於母影』、小説『舞姫』、翻訳『即興詩人』を発表し、また自ら文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。
その後、軍医総監(中将相当)となり、一時期創作活動から遠ざかったが、『スバル (文芸雑誌)』創刊後に『ヰタ・セクスアリス』『雁 (小説)』などを執筆。
乃木希典の殉死に影響されて『興津弥五右衛門の遺書』発表後は、『阿部一族』『高瀬舟 (小説)』などの歴史小説、史伝『渋江抽斎』を書いた。
なお、帝室博物館(現在の東京国立博物館、奈良国立博物館、京都国立博物館)総長や帝国美術院(現日本芸術院)初代院長なども歴任した。

生い立ち

1862年2月17日(文久2年1月19日)、石見国津和野町(現島根県)で生まれた。
代々津和野藩主、亀井公の御典医をつとめる森家では、祖父と父を婿養子として迎えているため、久々の跡継ぎ誕生であった。
また前年、祖父の白仙が東海道の土山宿で病死したため、とくに祖母は鴎外を白仙の生まれ変わりといって喜び、後年、鴎外が留学と出征から無事帰国するたびに、はらはらと涙を落としたという。
藩医の嫡男として、幼い頃から論語や孟子やオランダ語などを学び、藩校の養老館では四書五経を復読。
当時の記録から、9歳で15歳相当の学力と推測されており、激動の明治維新に家族と周囲から将来を期待されることになった。

1872年(明治5年)、廃藩置県等をきっかけに10歳で父と上京し、翌年、住居などを売却して残る家族も故郷を離れた。
東京では、官立医学校(ドイツ人教官がドイツ語で講義)への入学に備え、ドイツ語を習得するため、1872年10月に私塾の進文学社に入った。
その際に通学の便から、政府高官の親族西周 (啓蒙家)(にし・あまね)の邸宅に寄食した。
このような幼少期を過ごした鴎外は、ドイツ人学者にドイツ語で反論して打ち負かすほど、語学に堪能であった。
著作でドイツ語やフランス語などを多用しており、また中国古典からの引用も少なくない。
なお、西洋語学を習得する秘訣として、作品内で語源を学習に役立てる逸話を記した。

ドイツ留学

1873年(明治6年)11月、入校試問を受け、第一大学区医学校(現東京大学医学部)予科に実年齢より2歳多く偽り、11歳で入学。。
(のちに首席で卒業する同級生の三浦守治も同年11月に入学)
1881年(明治14年)7月4日、19歳で本科を卒業(今後も破られないであろう最年少卒業記録)。
卒業席次が8番であり、大学に残って研究者になる道が閉ざされたものの、文部科学省派遣留学生としてドイツに行く希望を持ちながら、父の病院を手伝っていた。
その進路未定の状況を見かねた同窓生の小池正直は、陸軍省医務局次長の石黒忠悳に鴎外を採用するよう長文の熱い推薦状を出しており、また小池と同じく陸軍軍医になっていた親友の賀古鶴所(かこ・つると)は、鴎外に陸軍省入りを勧めていた。
結局のところ鴎外は、同年12月16日に陸軍軍医副(中尉相当)になり、東京陸軍病院に勤務した。
なお妹、小金井喜美子の回想によれば、若き日の鴎外は、四君子を描いたり、庭を写生したり、職場から帰宅後しばしば寄席に出かけたり(喜美子と一緒に出かけたとき、ある落語家の長唄を聴いて中座)したという。

入省して半年後の1882年(明治15年)5月、東京大学医学部卒の同期8名の中で最初の陸軍省医務局付となり、プロイセンの陸軍衛生制度に関する文献調査に従事し、早くも翌年3月には『医政全書稿本』全十二巻を役所に納めた。
1884年(明治17年)6月、衛生衛生学を修めるとともにドイツ陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられた。
7月28日、明治天皇に拝謁し、賢所(かしこどころ)に参拝。
8月24日、陸軍省派遣留学生として横浜港から出国し、10月7日にフランスのマルセイユ港に到着。
同月11日に首都ベルリンに入った。

最初の一年をすごしたライプツィヒ(1884年11月22日-翌年10月11日)で、生活に慣れていない鴎外を助けたのが、昼食と夜食をとっていたフォーゲル家の人達であった。
また、黒衣の女性ルチウスなど下宿人たちとも親しくつきあい、ライプツィヒ大学ではフランツ・ホフマンなど良き師と同僚に恵まれた。
演習を観るために訪れたザクセン王国の首都ドレスデンでは、ドレスデン美術館にも行き、ラファエロ・サンティの「サン・シストの聖母」を鑑賞した。
次の滞在地ドレスデン(1885年10月11日-翌年3月7日)では、主として軍医学講習会に参加するため、5ケ月ほど生活した。
王室関係者や軍人との交際が多く、王宮の舞踏会や貴族の夜会や宮廷劇場などに出入りした。
また、二人の大切な友人を得ており、一人は鴎外の指導者ザクセン軍医監のウィルヘルム・ロートで、もう一人は外国語が堪能な同僚軍医のキルケである。
なお、ドレスデンを離れる前日、ハインリッヒ・エドムント・ナウマンの講演に反論しており、のちにミュンヘンの一流紙で論争が起こった。

ミュンヘン(1886年3月8日-翌年4月15日)では、ミュンヘン大学のマックス・フォン・ペッテンコーファーに師事した。
研究のかたわら、邦人の少なかったドレスデンと違って同世代の原田直次郎や近衛篤麿など名士の子息と多く交際し、また、よく観劇していた。
次のベルリン(1887年4月16日-翌年7月5日)でも、早速北里柴三郎とともにロベルト・コッホに会いに行っており、細菌学の入門講座をへてコッホの衛生試験所に入った。
9月下旬、カールスルーエで開催される第四回赤十字社会議の日本代表(首席)としてドイツを訪れていた石黒忠悳軍医監に随行し、通訳官として同会議に出席。
9月26・27日に発言し、とりわけ最終日の27日は「ブラボー」と叫ぶ人が出るなど大きな反響があった。
会議を終えた一行は、9月28日ウイーンに移動し、万国衛生会に日本政府代表として参加した。
11日間の滞在中、鴎外は恩師や知人と再会した。
1888年(明治21年)1月、大和会の新年会でドイツ語の講演をして公使の西園寺公望に激賞されており、18日から田村怡与造大尉の求めに応じてカール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論 (クラウゼヴィッツ)日本での成立』を講じた。
なお、留学を一年延長した代わりに、地味な隊付勤務(プロイセン近衛歩兵第二連隊の医務)も経験しており、そうしたベルリンでの生活は、ミュンヘンなどに比べ、より「公」的なものであった。
ただし、後述するドイツ人女性と出会った都市でもあった。

1888年7月5日、石黒とともにベルリンを発ち、帰国の途についた。
ロンドン(保安条例によって東京からの退去処分を受けた尾崎行雄に会い詩を4首おくった)やパリに立ち寄りながら、7月29日マルセイユ港を後にした。
その4日前の7月25日、あるドイツ人女性がブレーメン港から日本に向かっていた。
9月8日、横浜港に着き、午後帰京。
同日付けで陸軍軍医学校の教官に補され、11月には陸軍大学校日本陸軍の陸大教官の兼補を命じられた。
なお帰国直後、ドイツ人女性が来日して滞在一月(9月12日-10月17日)ほどで離日する出来事があり、小説『舞姫』の素材の一つとなった。
後年、文通をするなど、その女性を生涯忘れることは無かったとされる。

初期の文筆活動

1889年(明治22年)1月3日、読売新聞の付録に『小説論』を発表し、また同日の読売新聞から、弟の三木竹二とともにカルデロン・デ・ラ・バルカの戯曲『調高矣津弦一曲』(原題:サラメヤの村長)を共訳して随時発表した。
その翻訳戯曲を高く評価したのが徳富蘇峰であり、8月に蘇峰が主筆をつとめる民友社の雑誌『国民之友』夏期文芸付録に、訳詩集『於母影』(署名は「S・S・S」(新声社の略記))を発表した。
その『於母影』は、日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた。
また『於母影』の原稿料50円をもとに、竹二など同人たちと日本最初の評論中心の専門誌『しがらみ草紙』を創刊した(日清戦争の勃発により59号で廃刊)。
このように、外国文学などの翻訳を手始めに(『即興詩人』『ファウスト』などが有名)、熱心に評論的啓蒙活動をつづけた。
当時、情報の乏しい欧州ドイツを舞台にした『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』を相次いで発表。
とりわけ、日本人と外国人が恋愛関係になる『舞姫』は、読者を驚かせたとされる。
ちなみに、そのドイツ三部作をめぐって石橋忍月と論争を、また『しがらみ草紙』上で坪内逍遥の記実主義を批判して没理想論争を繰り広げた。
1889年(明治22年)に東京美術学校(現東京藝術大学)の美術解剖学講師を、1892年(明治25年)9月に慶應義塾大学の審美学(美学の旧称)講師を委嘱された(いずれも日清戦争出征時と小倉転勤時に解嘱))。

日清戦争出征と小倉「左遷」

1894年(明治27年)夏、日本と清が軍事衝突・開戦(8月1日、日本が宣戦布告)したため、鴎外は8月29日に東京を離れ、9月2日に広島の宇品港を発った。
下関条約の締結後、1895年(明治28年)5月10日に近衛師団つきの従軍記者、正岡子規が帰国のあいさつのため、鴎外を訪ねた。
清との戦争が終わったものの、鴎外は日本に割譲された台湾での勤務を命じられた(朝鮮勤務の小池正直とのバランスをとった人事とされる。)
出発前は5月22日に宇品港に着き(心配する家族を代表して訪れた弟の竹二と面会)、2日後には初代台湾総督の樺山資紀等とともに台湾に向かった。
4ヶ月ほどの台湾勤務を終え、10月4日に帰京。
翌1896年(明治29年)1月、『しがらみ草紙』の後を受けて幸田露伴、斎藤緑雨とともに『めさまし草』を創刊し、合評「三人冗語」を載せ、当時の評壇の先頭に立った(1902年廃刊)。
また、このころより、評論的啓蒙活動は、戦闘的ないし論争的なものから、穏健的なものに変わっていった。

陸軍内で対ロシア戦の準備が進む中、1899年(明治32年)6月に軍医監(少将相当)に昇進し、東京(東部)・大阪(中部)とともに都督部が置かれていた小倉市(西部)の第12師団 (日本軍)軍医部長に「左遷」された。
(このとき『小倉日記』が書かれる)。
世紀末から新世紀の初頭をすごした小倉時代には、歴史観と近代観にかかわる一連の随筆などが書かれた。
「鴎外漁史とは誰ぞ」(文壇時評)、「原田直次郎」(日本の近代西洋絵画)、「潦休録」(近代芸術)、「我をして九州の富人たらしめば」(社会問題)、「義和団の乱の一面の観察」(講演録)、「新社会合評」(矢野竜渓『新社会』の評論で社会主義などを記述)。
またドイツ留学中、田村怡与造に講じていた難解なクラウゼヴィッツの『戦争論』について、師団の将校たちに講義をするとともに、井上光師団長などの依頼で翻訳をはじめた。
その内部資料は、ほかの部隊も求めたという。

小倉時代に「圭角」がとれ、「胆が練れて来」たと末弟の森潤三郎が記述したように、そのころ鴎外は、社会の周縁ないし底辺に生きる人々への親和、慈しみの眼差しを獲得していた。
私生活でも、徴兵検査の視察時などで各地の歴史的な文物、文化、事蹟との出会いを通し、とくに後年の史伝につながる掃台(探墓)の趣味を得た。
新たな趣味を得ただけではなく、1900年1月に赤松登志子(旧妻)が結核で死亡したのち、母の勧めるまま1902年1月、18歳年下の荒木志げと見合い結婚をした(再婚同士)。
さらに、随筆「二人の友」に登場する友人も得た。
一人は曹洞宗の僧侶、玉水俊虠(通称、安国寺)で、もう一人は同郷の俊才福間博である。
二人は、鴎外の東京転勤とともに上京し、鴎外の自宅近くに住み、交際をつづけた。

軍医トップへの就任と旺盛な文筆活動

1902年(明治35年)3月、第一師団軍医部長の辞令を受け、新妻とともに東京に赴任した。
6月、廃刊になっていた『めざまし草』と上田敏の主宰する『芸苑』とを合併し、『芸文』を創刊(その後、出版社とのトラブルで廃刊したものの、10月に後身の『万年艸』を創刊)。
その頃は、12月に初めて戯曲を執筆するなど、戯曲にかかわる活動が目立っていた。
1904年(明治37年)2月から1906年(明治39年)1月まで日露戦争に第2軍 (日本軍)日露戦争における第2軍軍医部長として出征。
1907年(明治40年)10月、軍医総監(中将相当)に昇進し、陸軍省医務局(人事権をもつ軍医のトップ)に就任した。
なお同年9月、美術審査員に任じられ、第一回日本美術展覧会官展の歴史(初期文展)西洋画部門審査の主任になった。
このころまでは翻訳が多かったが、1909年(明治42年)に『スバル (文芸雑誌)』が創刊されると、これに毎号寄稿して創作活動を再開した(木下杢太郎のいう「豊熟の時代」)。
『半日』『ヰタ・セクスアリス』『鶏』『青年 (小説)』などを『スバル』に載せ、『仮面』『静』などの戯曲を発表。
その『スバル』創刊年の7月、鴎外は、東京帝国大学から文学博士の学位を授与された。
しかし、直後に『ヰタ・セクスアリス』(『スバル』7月号)が発売禁止処分を受けた。
しかも、内務省 (日本)の警保局が陸軍省を訪れた8月、鴎外は石本陸軍省陸軍次官から戒飭(かいちょく)された。
同年12月、「予が立場」でレジグナチオン(諦念)をキーワードに自らの立場を明らかにした。

慶應義塾大学の文学科顧問に就任(教授職に永井荷風を推薦)した1910年(明治43年)は、5月に大逆事件の検挙がはじまった。
9月に朝日新聞が「危険なる洋書」という連載を開始して6回目に鴎外と妻の名が掲載され、さらに南北朝正閏論南北朝正閏問題が大きくなった。
そうした閉塞感がただよう年に『ファスチェス』(発禁問題)、『沈黙の塔』(学問と芸術)、『食堂』(クロポトキンや無政府主義等を記述)などを発表。
翌1911年(明治44年)にも『カズイスチカ』『妄想』を発表し、『青年』の完結後、『雁』と『灰燼』の2長編の同時連載を開始。
同年4月の「文芸の主義」(原題:文芸断片)では、次のように記述した。
冒頭「芸術ジャンルに主義というものは本来ないと思う。
」とした上で、「無政府主義と、それと一しょに芽ざした社会主義との排斥をする為に、個人主義という漠然たる名を附けて、芸術に迫害を加えるのは、国家のために惜むべき事である。
学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄えるはずがない。」と結んだ。
1912年-1913年(大正元年-2年)には、『かのように』から『槌一下』まで五条秀麿を主人公にした連作を、また司令官を揶揄するなど戦場体験も描かれた『鼠坂』などを発表した。
このころは、身辺に題材をとった作品や思想色の濃い作品や教養小説や戯曲などを執筆した。
もっとも公務のかたわら、『ファウスト』などゲーテの三作品をはじめ、外国文学の翻訳・紹介・解説もつづけていた。

なお、1910-1911年、懸案とされてきた軍医の人事権をめぐり、件(くだん)の石本次官と医務局長の鴎外とが激しく対立し、鴎外が石本に辞意を告げる事態にまでなった。
結局のところ、医学優先の人事が鴎外の退官後もつづいた。
階級社会の軍隊で、それも一段低い扱いを受ける衛生部の鴎外の主張がとおった背景の一つに、山県有朋の存在があったと考えられている

1912年(大正元年)8月、「実在の人間を資料に拠って事実のまま叙述する、鴎外独自の小説作品の最初のもの」である『羽鳥千尋』を発表。
翌9月13日、乃木希典の殉死に影響を受けて5日後に『興津弥五右衛門の遺書』(初稿)を書き終えた。
これを機に歴史小説に進み、「歴史其儘」の『阿部一族』、「歴史離れ」の『山椒大夫』『高瀬舟 (小説)』などののち、史伝『渋江抽斎』に結実した。
ただし、1915年(大正4年)頃まで、現代小説も並行して執筆していた。
1916年(大正5年)には、後世の鴎外研究家や評論家から重要視される随筆「空車」(むなぐるま)を、ロシア革命の翌年1918年(大正7年)1月には随筆「礼儀小言」を著した。

晩年

1916年(大正5年)4月、任官時の年齢が低いこともあり、トップの陸軍省医務局長を8年半つとめて退き、予備役に編入された。
その後、1917年(大正7年)12月、帝室博物館(現東京国立博物館)総長兼図書寮宮内省図書頭(ずしょのかみ) に、翌年1月に帝室制度審議会御用掛に就任した。
さらに1918年(大正8年)9月、帝国美術院(現日本芸術院)初代院長となった。
元号の「明治」と「大正」に否定的であったため、宮内省図書頭として天皇の諡(おくりな)と元号の考証・編纂に着手した。
しかし『天諡考』は刊行したものの、病状の悪化により、自ら見いだした吉田増蔵に後を託しており、後年この吉田が未完の『元号考』の刊行に尽力し、元号案「昭和」を提出することとなった。

1922年(大正11年)7月9日、萎縮腎、肺結核のために死去。
享年61。
「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という遺言は有名で、遺言により一切の栄誉、称号を排して墓には「森林太郎ノ墓」とのみ刻されている。
向島弘福寺に埋葬された。
墓碑銘は、遺言により中村不折によって筆された。
戒名は貞献院殿文穆思斎大居士。
なお、関東大震災後、東京都三鷹市の禅林寺 (三鷹市)と津和野町の永明寺に改葬された。

評論的啓蒙活動

鴎外は自らが専門とした文学・医学、両分野において論争が絶えない人物であった。
文学においては理想や理念など主観的なものを描くべきだとする理想主義を掲げ、事物や現象を客観的に描くべきだとする写実主義的な没理想を掲げる坪内逍遥と衝突する。
また医学においては近代の西洋医学を旨とし、和漢方医と激烈な論争を繰り広げたこともある。
和漢方医が7割以上を占めていた当時の医学界は、ドイツ医学界のような学問において業績を上げた学者に不遇であり、日本の医学の進歩を妨げている、大卒の医者を増やすべきだ、などと批判する。
松本良順など近代医学の始祖と呼ばれている長老などと6年ほど論争を続けた。

また、鴎外の論争癖を発端として論争が起きた事もある。
逍遥が「早稲田文学」にウィリアム・シェイクスピアの評釈に関して加えた短い説明に対し、批判的な評を『しがらみ草紙』に載せたことから論争が始まった。
このような形で鴎外が関わってきた論争は「戦闘的評論」や「論争的啓蒙」などと評される。
もっとも三十歳代になると、日清戦争後に『めさまし草』を創刊して「合評」をするなど、評論的啓蒙活動は、戦闘的ないし論争的なものから、穏健的なものに変わっていった。
さらに、小倉時代に「圭角が取れた」という家族の指摘もある。

幅の広い文芸活動と交際

肩書きの多いことに現れているように、鴎外は文芸活動の幅も広かった。
たとえば、訳者としては、上記の訳詩集『於母影』(共訳)と、1892-1901年に断続的に発表された『即興詩人』とが初期の代表的な仕事である。
『於母影』は明治詩壇に多大な影響を与えており、『即興詩人』は、流麗な雅文で明治期の文人を魅了し、その本を片手にイタリア各地をまわる文学青年(正宗白鳥など)が続出した。

また鴎外は、戯曲の翻訳も多く(弟の三木竹二が責任編集をつとめる雑誌『歌舞伎』に掲載されたものは少なくない)、歌劇(オペラ)の翻訳まで手がけていた。
ちなみに、訳語(和製漢語)の「交響楽、交響曲」をつくっており、6年間の欧米留学を終えた演奏家、幸田延(露伴の妹)と洋楽談義をした(「西楽と幸田氏と」)。
そうした外国作品の翻訳だけでなく、帰国後から演劇への啓蒙的な評論も少なくない。

翻訳は、文学作品を超え、ハルトマン『審美学綱領』のような審美学(美学の旧称)も対象となった。
単なる訳者にとどまらない鴎外の審美学は、坪内逍遥との没理想論争にも現れており、田山花袋にも影響を与えた。
その鴎外は、上記のとおり東京美術学校(現東京藝術大学)の嘱託教員(美術解剖学・審美学・西洋美術史)をはじめ、慶應義塾大学の審美学講師、「初期文展」西洋画部門などの審査員、帝室博物館総長や日本芸術院初代院長などをつとめた。

交際も広く、その顔ぶれが多彩であった。
しかし、教師でもあった夏目漱石のように弟子を取ったり、文壇で党派を作ったりはしなかった。
ドイツに4年留学した鴎外は、閉鎖的で縛られたような人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたとされる。
高等官生活の合間も、書斎にこもらず、同人誌を主宰したり、自宅で歌会を開いたりして色々な人々と交際した。

文学者・文人に限っても、訳詩集『於母影』は5人による共訳であり、同人誌の『しがらみ草紙』と『めさまし草』にも多くの人が参加した。
とりわけ、自宅(観潮楼)で定期的に開催された歌会が有名である。
その観潮楼歌会は、1907年(明治40年)3月、鴎外が与謝野鉄幹の「新詩社」系と正岡子規の系譜「根岸」派との歌壇内対立を見かね、両派の代表歌人をまねいて開かれた。
以後、毎月第一土曜日に集まり、1910年(明治43年)4月までつづいた。
伊藤左千夫・平野万里・上田敏・佐佐木信綱等が参加し、「新詩社」系の北原白秋・吉井勇・石川啄木・木下杢太郎、「根岸」派の斉藤茂吉・古泉千樫等の新進歌人も参加した(与謝野晶子を含めて延べ22名)。

また、当時としては女性蔑視が少なく、樋口一葉をいち早く激賞しただけでなく、与謝野晶子と平塚らいてうも早くから高く評価した。
晶子(出産した双子の名付け親が鴎外)やらいてうや純芸術雑誌「番紅花」(さふらん)を主宰した尾竹一枝など、個性的で批判されがちな新しい女性達とも広く交際した。
その鴎外の作品には、女性を主人公にしたものが少なくなく、ヒロインの名を題名にしたものも複数ある(『安井夫人』、戯曲『静』、『花子』、翻訳戯曲『ノラ』(イプセン作『人形の家』))。

軍医として

上記のとおり鴎外は、東京大学で近代西洋医学を学んだ陸軍軍医(第一期生)であり、医学先進国ドイツに4年間留学し、最終的に軍医総監(中将相当)・医務局長にまで上りつめた。
当時軍事衛生上の大きな問題であった脚気の原因について細菌による感染症との説を主張し、のちに海軍軍医総監になる高木兼寛(及びイギリス医学)と対立した。
自説に固執し、当時海軍で採用していた脚気対策の治療法として行われていた麦飯を禁止する通達を出し、さらに日露戦争でも兵士に麦飯を支給するのを拒んだ(自ら短編「妄想」で触れている)。
但し当時の医学水準上(ビタミンの未発見)麦飯食と脚気改善の相関関係は(ドイツ医学的には)科学的に立証されておらず、高木側は脚気の原因を(イギリス医学の手法である、患者と食料の統計学的分析から)蛋白質不足であるとしていた。
ともあれ結果的に陸軍は25万人の脚気患者を出し、3万名近い兵士を病死させる事態となった(同時期、海軍では脚気患者はわずか87名。
高木により食品と脚気の相関関係が予測され、兵員に麦飯が支給されたためである)。
実に2個師団に相当する兵士が脚気で命を落とし、また戦闘力低下のために戦死した兵も少なくなく「(鴎外は)ロシアのどの将軍よりも多くの日本兵を殺した」との批判も存在している。
日露戦争終戦直前、業を煮やした陸軍大臣寺内正毅が鴎外の頭越しに麦飯の支給を決定、鴎外の面目は失われることとなった(寺内は日清戦争当時、具申した脚気対策に麦を送れと言う要望を鴎外により握り潰された経緯がある)。
「予は陸軍内で孤立しつつあり」とは、この頃の鴎外の述懐である。

後に鈴木梅太郎が脚気の特効薬であるオリザニン(=ビタミンB1)を発見し、脚気との因果関係が証明されて治癒の報告が相次いだ。
しかしその後も鴎外はかたくなに鈴木および学会の見解を批判した。
また、赤痢菌を見つけた志賀潔などが脚気の栄養由来説を支持したこともあり、医学界でも脚気栄養起源説が受け入れられつつあった。
この頃より鴎外の医学界での孤立はますます深まった。
結局、鴎外は死ぬまで「脚気は細菌による感染症である」との自説を撤回しなかった。
脚気栄養起源説の国家としての見識が示されたのは鴎外の死の2年後であった。

鴎外を擁護する立場からは、下士官・兵 (日本軍)達の「入隊したからには白米を食べたい」という声があり、当時、麦飯は白米に比べ美味でないとされていた(麦の精白技術が現代ほど発達していなかったため)こと(脚気歴史)を考慮すべきとの意見もある。

麦飯食を推進した高木兼寛は都市衛生問題で「高木兼寛貧民散布論」を提案し、東京から貧民を追い出すべきとの主張をしていた。
この主張はたしかに医学的・公衆衛生学的にはある程度評価できるものであったが、人道上の大きな問題があり、その立場から「貧民散布論」を徹底批判したのが鴎外ということもあって、両者の間には感情的にも深い対立関係が存在していた。

加えて脚気細菌起源説は鴎外のドイツ留学実現に尽力した石黒忠悳の主張だった。
このため当時ドイツ留学が国費留学以外に不可能だったという事情を鑑みる向きもある。
なお、森鴎外も食事上の栄養価については考慮していて、日露戦争時は新たに兵に十分な肉と野菜を与えるように指示していたが、脚気は細菌に由来すると考えていたため、脚気を考慮していたものではなかった。
(ただし、当時肉として主に使われていた豚肉には大量のビタミンB1が含まれているため、森鴎外の指示が行われていたら、脚気は発生しなかった可能性が高い)。
日露戦争では補給が滞り現地調達も困難であったため、米のみで熱量(カロリー)を補給する事態となり、鴎外らによって麦飯の補給を止められた陸軍では、大量の脚気患者と死者を生み出す結果となった。

『森鴎外全集』には医学に関する論文が多数収められている。
また、なぜビールに利尿作用があるのか、といった研究も行っている。
軍医であったためか「情勢を報告する・させる」目的から「情報」という言葉を考え出した人物とも言われる(異論もある)。

医学功績と脚気問題から見た再評価
鴎外の医学業績として、とくに二つの点が挙げられる。
一つは、ドイツから帰国した翌年の陸軍兵食試験(1889年8月-12月)であり、その試験は当時の栄養学の最先端に位置した。
もう一つは、陸軍省医務局長就任後の臨時脚気病調査会の創設(1908年)である。
脚気病の原因究明を目的としたその調査会は、陸軍大臣の監督する国家機関として、当代一流の研究者が総動員され、多額の予算がつぎ込まれた。
脚気ビタミン説が確定して廃止(1924年)されたものの、その後の脚気病研究会の母体となった。
鴎外が創設に尽力した臨時脚気病調査会は、脚気研究の土台をつくり、ビタミン研究の基礎をきずいたとして位置づけられている。
もっとも、脚気問題について高木兼寛は、海軍の兵食改革で海軍の脚気を「根絶」したとして賞賛されるのに対し、鴎外は陸軍の脚気惨害を助長したとして非難されやすい。
しかし、その対照的な評価には、「内実を知らない浅薄な見方にすぎない」との批判がある。
第一に海軍で「根絶」したはずの脚気病が大正期の中頃から急増した事実がある(たとえば昭和期に入っても1928年に1,153人、また1937年から1941年まで1,000人を下回ることがなかった)。
海軍で患者が増加した理由として、次のことが挙げられる。
兵食の問題(実は航海食がビタミン欠乏状態)、艦船の行動範囲拡大、高木の脚気原因説(たんぱく質と炭水化物の比例の失衡)の誤りの影響、「海軍の脚気は撲滅した」という信仰がくずれたこと(脚気診断の進歩もあって見過ごされていた患者を把握できるようになった(それ以前、神経疾患に混入していた可能性がある))である。
第二に、鴎外が陸軍の脚気惨害を助長したという批判に対し、次のような見解がある。
まず、陸軍の脚気惨害の責任について、戦時下で陸軍の衛生に関する総責任を負う大本営陸軍部の大本営組織(日清戦争日本軍の損害・石黒忠悳、日露戦争講和へ・小池正直)ではなく、隷下の一軍医部長を矢面に立たせることへの疑問である。
次に、鴎外が白米飯を擁護したことが陸軍の脚気惨害を助長したという批判については、日露戦争当時、麦飯派の寺内正毅が陸軍大臣であった(麦飯を主張する軍医部長がいた)にもかかわらず、大本営が「勅令」として指示した戦時兵食は、日清戦争と同じ白米飯(精白米6合)であった。
その理由として「麦は虫がつきやすい、変敗しやすい、味が悪い、輸送が困難などの反対論がつよく」、その上、脚気予防(理屈)とは別のもの(情)もあったとされる。
白米飯は庶民あこがれのご馳走であり、麦飯は貧民の食事として蔑まれていた世情を無視できず、また部隊長の多くも死地に行かせる兵士に白米を食べさせたいという心情があった。
最後に、鴎外の「陸軍兵食試験」が脚気発生を助長したという批判については、兵食試験の内容(当時として正しい試験で正しい結論)を把握せず、しかもビタミンの存在を知っている後世から、その存在を知らなかった前世への暴論である。
ただし兵食試験の成績は、上官の石黒によってゆがめられた。
その誤用を看過したことは、階級社会の軍隊でも、部下の鴎外に責任がまったく無いといえない。
以上より、鴎外が脚気問題で批判される多くは、筋違いという意見がある。
鴎外への批判が起こった理由として、海軍の兵食改良を批判しすぎたこと、論理にこだわりすぎて学術的権威に依拠しすぎたこと、日清戦争時の上官の石黒に同調したことが挙げられる。
なお、脚気問題で批判される根拠としては、日露戦争後に鴎外がトップの陸軍省医務局長になったとき、麦飯を禁止して違反者を取り締まった事実や「脚気減少は果して麦を以て米に代へたるに因する乎」という論説を衛生関連の7雑誌に掲載したことで牽制する結果を招いた事(『鴎外全集』第34巻、165-168頁)、「勝てば官軍」等に表されるように軍人は特に経過を問われずに結果だけで評価されやすい事などがあげられる。

年譜

年齢は数え年

1862年2月17日(文久2年1月19日・1歳) - 石見国津和野藩の津和野(現・島根県鹿足郡津和野町)に、津和野藩医・森静泰(後に静男と改名)、峰子の長男として生まれる。

1867年(慶応3年・6歳)

11月、村田久兵衛に論語を学ぶ。

1868年(慶応4年・7歳)

3月、米原綱善に孟子を学ぶ。

1869年(明治2年・8歳)

- 藩校の養老館で、四書を一から読み直す。

1870年(明治3年・9歳)

- 五経、オランダ語を学ぶ。

1871年(明治4年・10歳)

藩医の室良悦にオランダ語を学ぶ。

1872年(明治5年・11歳)

- 6月、父とともに津和野を発ち、8月に東京入り(向島小梅村)。
その後、向島曳舟通りに転居。
10月、ドイツ語習得のため、本郷の進文学社(私塾)に入学。

1873年(明治6年・12歳)

- 6月、津和野町の家を売却し、祖母、母なども上京。
11月、第一大学区医学校予科(現在の東京大学医学部)に入学。
同校は、のちに東京医学校に改称。

1877年(明治10年・16歳)

- 東京医学校は、東京開成学校と合併して東京大学医学部に改組され、その本科生になる。

1880年(明治13年・19歳)

本郷龍岡町の下宿屋「上条」に移る。
翌年3月、下宿先で火災に遭い、講義ノートなどを失う。

1881年(明治14年・20歳)

春、肋膜炎にかかる。
7月、東京大学医学部を卒業。
父 森静男の経営する南足立郡千住町の橘井堂医院に転居。
文部省広報に「東京府士族 森林太郎 十九年八ヶ月」とみえる。
その後、明治政府に仕える。
9月、読売新聞に寄稿した「河津金線君に質す」が採用される。
これが鴎外の初めて公にされた文章であろう。
12月、東京陸軍病院課僚を命じられて、陸軍軍医の副の任務につく。

1882年(明治15年・21歳)

- 2月、第一軍管区徴兵副医官(中尉相当)になり、従七位の勲等を授かる。
5月、陸軍軍医本部課僚になり、プロシア陸軍衛生制度の調査に駆り出される。

1884年(明治17年・23歳)

- 6月、陸軍衛生制度、衛生学研究の目的で、ドイツ留学を命じられる。
8月、横浜を出航。
10月、ドイツに到着。
ライプツィヒ大学でホフマン教授などに学ぶ。
『ビイルの利尿作用に就いて』の研究を始める。

1885年(明治18年・24歳)

1月、ハウフの童話を翻訳した『盗侠行』を発表。
2月には、ドイツ語で『日本兵食論』『日本家屋論』を執筆。
5月、陸軍一等軍医(大尉相当)に昇進。
10月、ドレスデンに移る。

1886年(明治19年・25歳)

3月、ミュンヘンに移る。
大学衛生部に入学し、マックス・フォン・ペッテンコーファーに衛生学を学ぶ。

1887年(明治20年・26歳)

4月、ベルリンに移る。
5月、北里柴三郎とともにロベルト・コッホを訪ね、衛生試験所に入る。

1888年(明治21年・27歳)

3月、プロシア近衛歩兵第二連隊の軍隊任務につく。
9月、日本(横浜港)に帰国。
10月、陸軍大学校教官に就任。
12月、『非日本食論将失其根拠』を自費出版。

1889年(明治22年・28歳)

1月東京医事新誌』を主宰。
その後、読売新聞に『医学の説より出でたる小説論』が発表され、本格的な文筆活動が始まる。
3月、写真婚で、海軍中将赤松則良の長女登志子と婚約。
5月、東京藝術大学専修科の美術解剖学講師に就任。
8月、『国民之友』に訳詩編「於母影」を発表。
10月、軍医学校陸軍二等軍医正(中佐相当官)教官心得になる。

1890年(明治23年・29歳)

1月、『医事新論』を創刊。
『国民之友』に「舞姫」を発表。
8月、『しからみ草紙』に「うたかたの記」を発表。
この作品は、石橋忍月との論争の火種になる。
9月、長男森於菟誕生。
しかし、まもなく妻登志子と離婚。
10月、本郷駒込千駄木町57に居住を移す。
鴎外は、そこを「千朶山房」と呼ぶ。

1891年(明治24年・30歳)

1月、『文づかひ』を刊行。
8月、博士 (医学)の学位を授与される。
9月、『しからみ草紙』に「山房論文」を発表。
「早稲田文学」で坪内逍遥と没理想論争を交わす。

1892年(明治25年・31歳)

7月、翻訳小説集『美奈和集』(春陽堂)を刊行。
8月、医学と文学の論争から離れて休息を取るため、自宅(観潮楼)を建設。
11月、『しからみ草紙』にハンス・クリスチャン・アンデルセンの「即興詩人」を連載。

1893年(明治26年・32歳)

11月、陸軍一等軍医正(大佐相当)に昇進し、軍医学校長になる。

1894年(明治27年・33歳)

- 8月、日清戦争開戦。
軍医部長として清(盛京省花園口)に上陸。
10月、広島大本営のある広島市で執務をし、11月大連市に上陸。

1895年(明治28年・34歳)

- 5月、下関条約の調印後、帰国(帰京することなく広島市にとどまる)。
8月、台湾総督府陸軍局軍医部長になり、台湾に赴任。
9月、帰国の途につく。

1896年(明治29年・35歳)

- 1月、『めさまし草』を創刊。
3月、幸田露伴、斎藤緑雨らとともに『めさまし草』に「三人冗語」を連載。
4月、父静男死去。

1897年(明治30年・36歳)

1月、中浜東一郎(ジョン万次郎=ジョン万次郎の長男)、青山胤通らとともに公衆医事会を設立、『公衆医事』を創刊。

1898年(明治31年・37歳)

- 10月、近衛師団軍医部長兼軍医学校長に就任。

1899年(明治32年・38歳)

6月、軍医監(少将相当)に昇任し、第12師団 (日本軍)軍医部長として福岡県の小倉に赴任。

1902年(明治35年・41歳)

1月、大審院判事荒木博臣の長女志げと再婚。
3月、東京に転勤。

1903年(明治36年・42歳)

1月、長女森茉莉誕生。

1904年(明治37年・43歳)

- 2月、日露戦争開戦。
4月、第2軍 (日本軍)日露戦争における第2軍軍医部長として、広島市の宇品港をたつ。
『うた日記』を書く。

1905年(明治38年・44歳)

奉天会戦勝利後、残留していたロシア赤十字社員の護送に尽力。
翌年、1月帰国。

1906年(明治39年・45歳)

6月、賀古鶴所らとともに歌会「常磐会」を設立(のちに山縣有朋などが参加)。

1907年(明治40年・46歳)

- 3月、与謝野鉄幹、伊藤左千夫、佐佐木信綱らと自宅で「観潮楼歌会」を開く。
6月、西園寺公望が主催した歌会「雨声会」に出席。
8月、次男不律誕生。
10月、軍医総監、陸軍省医務局となる。

1908年(明治41年・47歳)

1月、弟三木竹二死去。
2月、次男不律死去。
5月、文部省の臨時仮名遣調査委員会委員になる。

1909年(明治42年・48歳)

3月、『スバル (文芸雑誌)』に口語体小説「半日」を寄稿。
以後、頻繁に寄稿する。
5月、次女小堀杏奴誕生。
7月、文学博士の学位を授与され、また『ヰタ・セクスアリス』が発売禁止となる。

1910年(毎時43年・49歳)

- 2月、慶應義塾大学の文学科顧問になる。

1911年(明治44年・50歳)

2月、三男森類誕生。
5月、文芸委員会委員になる。
9月、『スバル』に「雁 (小説)」を連載。

1912年(明治45年・51歳)

1月、文芸委員会に頼まれていた戯曲『ファウスト』の訳を完結させる。
10月、鴎外にとって初の歴史小説「興津弥五右衛門の遺書」を『中央公論』に発表。

1913年(大正2年・52歳)

- 1月、『中央公論』に「阿部一族」を発表。

1914年(大正3年・53歳)

- 1月、『中央公論』に「大塩平八郎」を発表。
2月、『新小説』に「堺事件」を発表。

1915年(大正4年・54歳)

- 1月、『中央公論』に「山椒大夫」を、『心の花』に「歴史其儘と歴史離れ」を発表。
11月、大嶋陸軍省陸軍次官に辞意を表明。
同年、渋江抽斎の調査研究を始める。

1916年(大正5年・55歳)

- 1月、『中央公論』に「高瀬舟 (小説)」を、『新小説』に「寒山拾得」を発表。
東京日日新聞と大阪毎日新聞に「渋江抽斎」を連載。
3月、母峰子死去。

1917年(大正6年・56歳)

12月、帝室博物館総長に就任し、高等官一等に叙せられる。

1918年(大正7年・57歳)

- 11月、正倉院宝庫開封に立ち会うため奈良に一時滞在。
以後1921年まで毎秋、奈良を訪れた。

1919年(大正8年・58歳)

- 9月、日本芸術院の初代院長に就任。

1920年(大正9年・59歳)

- 1月、腎臓を病む。

1921年(大正10年・60歳)

6月、臨時国語調査会長に就任。
秋、足に浮腫が出来はじめるなど、腎臓病の兆候が見られ始める。

1922年(大正11年・61歳)

- 4月、イギリス皇太子の正倉院参観に合わせ、奈良へ5度目の旅行。
途中、いくどか病臥する。
6月29日、萎縮腎と診断される。
また、肺結核の兆候も見られた。
7月6日、友人の賀古鶴所に遺言の代筆を頼む。
7月9日、午前7時死去。
向島弘福寺に埋葬される。

1927年(昭和2年)

- 墓が三鷹市禅林寺に移される。
分骨され津和野町永明寺にも墓がある。

小説

舞姫 (『国民之友』、1890年1月)
うたかたの記 (『国民之友』、1890年8月)
文づかひ (吉岡書店、1891年1月)
半日 (『スバル』、1909年3月)
魔睡 (『スバル』、1909年6月)
ヰタ・セクスアリス (『スバル』、1909年7月)
鶏 (『スバル』、1909年8月)
金貨 (『スバル』、1909年9月)
杯 (『中央公論』、1910年1月)
青年 (小説) (『スバル』、1910年3月 - 11年8月)
普請中 (『三田文学』、1910年6月)
花子 (『三田文学』、1910年7月)
あそび (『三田文学』、1910年8月)
食堂 (『三田文学』、1910年12月)
蛇 (『中央公論』、1911年1月)

妄想 (『三田文学』、1911年4月)
雁 (小説) (『スバル』、1911年9月 - 1913年5月)
灰燼 (『三田文学』、1911年10月 - 1912年12月)
百物語 (『中央公論』、1911年10月)
かのように (『中央公論』、1912年1月)
興津弥五右衛門の遺書 (1912年10月、『中央公論』)
阿部一族 (『中央公論』、1913年1月)
大塩平八郎 (『中央公論』、1914年1月)
堺事件 (『新小説』、1914年2月)
安井夫人 (『太陽』、1914年4月)
山椒大夫 (『中央公論』、1915年11月)
じいさんばあさん (『新小説』、1915年9月)
高瀬舟 (小説) (『中央公論』、1916年1月)
寒山拾得 (『新小説』、1916年1月)

戯曲
生田川 (戯曲)

翻訳

カルデロン・デ・ラ・バルカ『調高矣津弦一曲』、1889年。
※三木竹二との共訳

『於母影』 (新声社訳『国民之友』夏期付録、1889年)
ハンス・クリスチャン・アンデルセン『即興詩人』 (『しからみ草紙』1892年11月 から掲載され、『めさまし草』1901年2月完)
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ『ファウスト』 (第一部:1913年1月、第二部:3月、冨山房)
『サロメ (戯曲)』 オスカー・ワイルド

史伝

渋江抽斎 (東京日日新聞・大阪毎日新聞、1916年1月 - 5月)
伊沢蘭軒
北条霞亭
続篇として『狩谷棭斎』を執筆する予定だった。

家族 親族

妻子

先妻 登志子(海軍中将赤松則良娘)

長男 森於菟(おっと、医学者、台北帝国大学医学部教授などを歴任)

後妻
- 森志け
小説「波瀾」を著しており(『樋口一葉・明治女流文学・泉鏡花集』現代日本文学大系5、筑摩書房、1972年)、義妹の小金井喜美子とともに雑誌『青鞜』の賛助員になった。

長女 森茉莉(まり、随筆家・小説家)

次女 小堀杏奴(あんぬ、随筆家)

次男 不律(ふりっつ、夭折)

三男 森類(るい、随筆家)

4人の子供はいずれも鴎外について著作を残しており、とりわけ茉莉(国語教科書に載った『父の帽子』)と杏奴(『晩年の父』)が有名である。

弟妹
弟 森篤次郎(三木竹二)

明治期を代表する劇評家で、内科医。
演劇雑誌『歌舞伎』を主宰し、歌舞伎批評に客観的な基準を確立した(三木竹二『観劇偶評』、渡辺保編、岩波文庫、2004年)。

妹 小金井喜美子

明治期に若松賤子と並び称された翻訳家で、また随筆家・歌人でもあった(『鴎外の思い出』岩波文庫、1999年。
『森鴎外の系族』岩波文庫、2001年)。

義弟 小金井良精

喜美子の夫。
初期の文部省派遣留学生(鴎外の前年にドイツ留学)。
24歳で帰国し、27歳のとき高給の外国人教師に代わって東京帝国大学医学部教授に就任。

小金井夫妻の孫の一人が小説家の星新一。

傍系

西周 (啓蒙家)

鴎外の曾祖父の次男、森覚馬が西家を継いで生まれた子。
幕末明治維新の西洋法学者・啓蒙家で、貴族院 (日本)や元老院議官などの要職を歴任。
上京後の一時期、鴎外少年は、西周邸から進文学社に通学した。

系譜

森氏 典医としての森家は慶安年間から明治2年の版籍奉還に及ぶ。

その他

常日頃、文人の自分と武人のそれを厳格に分けて考えていた。
あるとき文壇の親しい友人が軍服を着て停車場にいた森に何気なく話しかけたら、その友人を怒鳴りつけたことがある。

軍人としての誇りが高く、娘と散歩する時にも必ず軍服に着替えた。
あるとき杏奴と散歩をしていると、「わー中将が歩いているぞ」と子供たちがバラバラと駆け寄ってきた。
日露戦争後で、軍人が子供たちのヒーローであったのである。
得意満面の鴎外を、あこがれの目で見つめていた子供たちの一人が、襟の深緑色を見て、「おい、なんだ、軍医だよ」と声をあげると、「なーんだ、軍医かあ」と言いながら子供たちは散ってしまった。
あとには呆然として立ち尽くす父娘が残され、がっかりとした鴎外は帰宅するまで、一言もしゃべらなかったという。

1892年に東京都文京区へ建設し、晩年まで過ごした住居「観潮楼」跡地に、文京区立本郷図書館鴎外記念室がある。

細菌学を究めて以来、ルイ・パスツール同様潔癖症になってしまい、どんな食べ物も加熱しないと食べられなくなってしまったという。
その一方で、風呂嫌いでもあった。

大の甘党でもあり、娘(茉莉・杏奴)の著書によると饅頭を茶漬けにして食べていたという。
これは潔癖症も原因で、食品を砂糖漬けにしたり、熱湯をかけたりすれば細菌は死滅するから、という考えもあったようだ。

[English Translation]