橘周太 (TACHIBANA Shuta)

橘 周太(たちばな しゅうた、慶応元年9月15日 (旧暦))(1865年11月3日) - 明治37年(1904年)8月31日)は、日本の陸軍軍人。
日露戦争における遼陽会戦で戦死し、以後軍神として尊崇される。
官位は歩兵第34歩兵連隊第1大隊長・中佐正六位旭日章金鵄勲章。

経歴

慶応元年9月、庄屋城代季憐(格橘季憐とも)の二男として長崎に生まれた橘は、勝山小学校、長崎県立長崎西高等学校、二松学舎を経て明治14年陸軍士官学校 (日本)幼年生徒に合格する。
以後軍人の道を歩み、東宮武官、歩兵第36連隊中隊・名古屋陸軍幼年学校を歴任する。
明治37年の日露戦争開戦にあたっては新設の第2軍 (日本軍)管理部長に任命される。
同年8月には歩兵第34連隊第1大隊長に転出し首山堡の攻撃にあたる。
橘はその戦闘で死亡し、同日付で陸軍歩兵中佐に進級し勲四等旭日小綬章及功四級金鵄勲章を賜った。

橘の死後彼を慕う者が集い、明治45年銅像建立建設委員会が組織され、大正7年に銅像が建立された。
また、彼を祭神として祀る橘神社の創建も検討され昭和3年に具体的活動になる。
途中一時期中断していたが、昭和12年神社創建が許可され昭和15年5月鎮座祭が執り行われた。
周太の長男で陸軍大尉と成った橘一郎左衛門(陸士26期)が橘神社の宮司に就任する。

歩兵第34連隊は橘連隊の通称ができ、それは同じ駐屯地の同じ番号の陸上自衛隊第34普通科連隊にも受け継がれている。

橘家は敏達天皇皇子難波皇子の玄孫(曾孫とする説もある)橘諸兄の子孫であり、鎌倉時代末期の武将楠木正成は同族である。
正成の弟正氏が和田を名乗り、その子孫和田義澄が肥前国島原領千々石村(後の長崎県雲仙市)に移り城代を名乗る。
橘周太も初め城代であったが、兄の常葉の代から橘とする。

なお、橘湾は元々は千々石灘あるいは千々石湾と呼ばれていたものを、1919年橘の像が千々石町(現在の雲仙市千々石町)に建立された際、関係者が千々石灘の名称を橘湾と変更するよう申請した。
それを海図作成を行っていた水路部 (日本海軍)が正式に橘湾と記載するようになったものである。

[English Translation]