水野勝成 (MIZUNO Katsunari)

水野 勝成(みずの かつなり、永禄7年8月15日 (旧暦)(1564年9月30日) - 慶安4年3月15日 (旧暦)(1651年5月4日))は戦国時代 (日本)の武将、江戸時代初期の大名。
備後福山藩(現在の広島県福山市)初代藩主。
水野宗家初代。

三河出身、三河国刈谷藩城主水野忠重の長男。
母は都築吉豊の娘。
幼名は国松。
通称藤十郎、六左衛門。
号は宗休。
官位は従四位下、受領は日向守。
徳川家康の生母於大の方は忠重の姉であることから、家康の従弟にあたる。
正室は三村親成の養女お柵(三村家親の娘)。
子に水野勝俊(長男)、水野成言(次男)、水野成貞(三男)、水野勝則(四男)、水野勝忠(五男)。

経歴

放浪と転戦
勝成は、とにかく気性が激しい武将であった。
初陣は遠江国高天神城攻めで、以後家康に従って武田氏との戦いや天正壬午の乱を転戦する。
気性が激しいだけに戦場での働きはめざましかったが、小牧・長久手の戦いの際に一軍の大将でもあるにも関わらず自ら一番槍を挙げるなどの軍令違反を咎められたことや、さらに自らの不行状を忠重に報告した家臣を斬ったことで出奔し、父によって奉公構え(事実上の他家への仕官禁止)となる。

そのため、主に中国地方や九州を放浪し小西行長、加藤清正、豊臣秀吉や佐々成政、三村親成らに仕えて重用されるが、前述の奉公構えによる水野家からの横槍に加えて気性の激しさなども手伝っていずれも長続きしなかった。
しかし、勘当されたとはいえ徳川方有力大名の嫡子としては非常に不自然な行動をしている事や、その後の福山への入封などから、西国の豊臣方大名の動向を探るための家康の密偵的な役割もあったのではないかとの推測もある。

慶長3年(1598年)に家康らの仲介もあって父忠重と和解する。
慶長5年(1600年)に忠重が加賀井重望に殺されたため、急遽家督を継いだ。
関ヶ原の戦いでは岐阜城攻め、曾根防衛、大垣城攻めに加わり、刈谷市3万石を安堵された。

慶長15年(1610年)に従五位下に任官し日向守を名乗る。
日向守は明智光秀が名乗っていたため、誰もが忌避していた官職であるが、勝成は気にすることなく笑い飛ばし、逆に日向守を欲したという。
以後は「鬼日向」と渾名されることもあった。

大坂の役にも参加し、特に夏の陣では大和国口の先鋒の将に指名され、道明寺の戦いなどで活躍し、大坂城一番乗りの功を越前勢と分け合う。
この功を認められるが、またしても大将の勝成自身が一番槍を成し遂げたため、家康に冷遇されてしまい、この戦いで郡山城 (大和国)を焼き払われた大和郡山市に加増の上に転封される(郡山藩6万石)。

初代福山藩主
元和 (日本)5年(1619年)、備中国西南部と備後国南部で備後福山藩10万石を与えられたが、当初入った神辺城に代えて幕命により西日本の幕府側拠点として瀬戸内海に近い今日の福山市に新たな城(福山城 (備後国))と城下町(福山 (城下町))を築いた。

福山入封後は放浪時代の恩人で知謀の名高い三村親成を高禄で家老職に迎え藩政に力を注ぎ、城下町の建設、産業育成、治水工事や新田開発を積極的に行い、それまでは概ね湿地帯であった現在の福山市域の発展の礎を築いた。
特に新田開発は後の五代藩主の水野勝岑死去に伴う改易の際の検地では約5万石分の新たな石高を有していた。

寛永3年(1626年)には三代将軍徳川家光の上洛に従い従四位下に昇進し、相模国愛甲郡厚木村(現在の神奈川県厚木市)の1000石を加増される。

寛永15年(1638年)、幕府から島原の乱鎮圧への参加を要請された勝成は嫡子勝俊、孫の勝貞を伴い藩兵約6000人を率いて幕府軍に加わった。
これは幕府上使を除き九州の大名以外で唯一の参陣であり、老齢(当時75歳)にもかかわらず勝成の戦歴を評価されてのことであった。
総攻撃の際には、福山藩兵は幕府の期待に応え数々の戦功を挙げるが、同時に100人を超える戦死者を出すことにもなった。
これは勝成の戦歴で最大の損害であった。

寛永16年(1639年)に家督を嫡子水野勝俊に譲り隠居するが、隠居料の1万石をもって更なる福山城下町への投資を続けた。
慶安4年に福山城内において死去し、福山城下の菩提寺、曹洞宗 賢忠寺に葬られる。
法名は徳勝院殿参康宗休大居士。
(曹洞宗の法名)または、大機院前下大夫日州太守一分斎宗休大居士(臨済宗の法名)

また、神道の礼で聡敏明神として祀られ、福山城北にある福山八幡宮の境内に聡敏神社があるほか、茨城県の結城城址脇に聡敏社がある。
現在、福山城の東側の二の丸に銅像が建立され、福山の街の開祖として現在もなお福山市民に崇められている。

その他

初代信濃国松本藩(現在の長野県松本市)主の水野忠清は勝成の実弟。
「傾奇者」として知られた旗本の水野十郎左衛門(十郎左衛門)は勝成の孫である。

加藤清正の正室、徳川家康養女清浄院は、実は勝成の父忠重の女、即ち勝成の妹である。
加藤家断絶の時に勝成・勝俊は熊本城受け取りの役目を勤め、この時に清浄院を福山に引き取った。

宮本武蔵との深い交友もあり、武蔵は大坂夏の陣では勝成の軍勢の客将として嫡男勝重(勝俊)を守護した。
武蔵の最初の養子宮本三木之助は水野軍武者奉行中川志摩之助の3男で、大坂陣後に4男九郎太郎と共に武蔵が養子に貰い受けたものである。
後に武蔵が福山を訪れた際に家老中山将監の屋敷に立ち寄り腰掛けたという庭石が、水野家の後の阿部家家老屋敷となっても伝えられ、今は備後護国神社境内に移されて現存している。

[English Translation]