永谷宗円 (NAGATANI Soen)

永谷 宗円(ながたに そうえん、天和 (日本)元年(1681年) - 安永7年(1778年))は山城国宇治田原郷湯屋谷村(現京都府綴喜郡宇治田原町湯屋谷)の農家。

永谷家の先祖は同じ宇治田原の糠塚村の土豪で、文禄元年(1592年)に湯屋谷に移り住んで農業に携わる一方、湯山社を祀っていた。

もともと名は宗七郎義弘といい、入道して宗円と称した。
三之丞ともいい、直系の子孫は代々「三之丞」を襲名していた。

湯屋谷では茶業のみならず、湿田改良などの事業を行い、村人を指導する立場であったらしい。

宗円の功績にまつわる伝承
中国から日本にもたらされた茶は、南宋に渡った栄西が「喫茶養生記」で茶の効能を説いたように、当初は寺院での修行や薬用として飲用されていた。
やがて各地で栽培が広がるが、宇治の特定の茶師は、幕府の許可を得て高品質の碾茶の製造を独占していた。
富裕層が好んだ抹茶とはちがい、庶民は色が赤黒く味も粗末な「煎じ茶」を飲んでいた。
そんな中、宗円は15年の歳月をかけて製茶法を研究し、味もすぐれた緑の新しい煎茶(正確には「だし茶」である)を作り上げた。
この宗円が発明した「青製煎茶製法」はその後の日本緑茶の主流となる製法となった。
宗円は完成した茶を携えて江戸に赴き、茶商の山本嘉兵衛に販売を託したところ、たちまち評判となり、以後「宇治の煎茶」は日本を代表する茶となった。
宗円の煎茶を販売し大きく利益をた「山本山」では、明治8年(1875年)まで永谷家に毎年小判二十五両を贈った。
宗円は自身が発明した製茶法を近隣にも惜しみなく伝えたため、「永谷式煎茶」「宇治製煎茶」は全国に広がることとなった。

実際の姿
上記の宗円の事跡は地元や茶業者を中心に根強く信じられているが、近年の研究では、それは伝承の域を出ないことが明らかになってきている。

まず、中国から当初もたらされた茶は「抹茶」ではなく、「煎じ茶」と「挽き茶」であった。
「煎じ茶」は乾燥させた茶葉を煮出したもので、「煎茶」とはもともとこれを意味していた。
「水色(すいしょく)」は黄色系で、保存状態が悪いと赤黒くなる。
一方の「挽き茶」は乾燥させた茶葉を臼や薬研ですりつぶしたものを湯で溶いたもので、「抹茶」の原型といえるもの。
水色は緑系。
後の抹茶との違いは煎茶と同じく露天の茶園で栽培されたことで、戦国時代 (日本)になってから宇治で「覆下茶園」が発明され、茶臼の改良などにより現在の抹茶となっていく。
また、従来は庶民は煎じ茶、富裕層は抹茶を飲んでいたとされていたが、中世では庶民層も挽き茶を飲んでいたことが明らかになっている。

「宗円が発明した技法の特徴」は「それまで中国のような釜炒り茶が主流な中、良質な茶葉を蒸して、「ほいろ」で揉み上げて乾燥せた」こととされる。
しかし、世以降、全国各地では多様な製法による茶が生産されており、茶葉を蒸したり、湯がいたものを、日光や「ほいろ」で乾燥させ、近世には「揉む」工程が加わっていた。
こうした製茶法の変化については中世〜近世の当時の文献資料などから明らかになってきたことである。
宗円の功績の伝承で語られる「釜炒りから蒸し製へ」「茶葉を揉み乾かす工程」を宗円がはじめて導入したわけではない。
また、資料から伺える「ほいろ」の構造からは、明治までは現在のようにほいろの上で茶葉を終始一貫して揉みながら乾かすという作業を行うことができなかった。
江戸時代までのほいろは、竹の骨組みに和紙を貼り付けたもので、耐久力の面から、その上で強い力をもって揉み通すということが不可能であったといわれる。
明治になり、鉄の骨組みを持つほいろが登場し、ほいろの上で揉み乾かす手揉みの技法が発達して、様々な流派が生まれていった。

このように、長い年月を経て製茶法は改良を重ねられたのであり、決して一人の人間によって発明されたものではない。

江戸時代には中国文化の影響を受けた文人趣味の中で煎茶をたしなむことが流行し、「青製煎茶製法」はそうした文化的・経済的需要の中で到達した日本茶の製法のひとつの頂点であるといえる。

では実際の宗円の功績は何であるかというと、「宇治茶の産地」であった宇治田原の茶を、当時の大消費地であった江戸での直販ルートを開拓したことであり、それが現在の通信販売を中心とした全国展開される茶の販売網の礎を築くことになったのである。

ただ、宇治を中心とする茶業者や地元では宗円の功績を顕彰する気持ちが強いため、こうした研究成果を受け入れたがらない傾向がある。
「宗円の功績」について後年になって当事者である永谷家や山本家(山本山)の記した文献以外に、当時の客観的資料が見いだせない以上、業界の宣伝のためとはいえ、伝承を安易に史実としてしまうことはさけるべきであろう。

宗円と永谷家のその後
宗円は安永7年(1778年)に98歳で天寿を全うした。

宗円の子孫のひとりは東京で「永谷園」を創業した。

直系の子孫である三之丞家は明治に宇治市六地蔵に移転し、現在9代目が茶問屋「永谷宗園」を継いでいる。

宇治田原町湯屋谷の、永谷家のあった場所には製茶道具やほいろ跡を保存する施設「永谷宗円生家」が昭和35年に建てられ、それに隣接する大神宮神社には昭和29年、宗円が「茶宗明神」として祀られた。

[English Translation]