清水谷公考 (SHIMIZUDANI Kinnaru)

清水谷 公考(しみずだに きんなる、弘化2年9月6日 (旧暦)(1845年10月6日) - 明治15年(1882年)12月31日)は、幕末の公家。
公卿・清水谷公正の子。
箱館府知事。

幼い頃に出家して比叡山に入るが、清水谷家を継ぐことになったため還俗。
安政5年(1858年)に従五位下を授受。
文久2年(1862年)に侍従を申し付けられた。

慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、蝦夷地鎮撫を朝廷へ進言した。
よって新政府より箱館裁判所総督に任命されて閏4月26日、旧幕府管轄箱館奉行より箱館において業務引き継ぎを行った。
一行は少数だったが引き継ぎは至ってスムーズで、清水谷は旧幕府役人の希望者を下僚に用いた。
箱館裁判所が箱館府に名を変えると共に箱館府知事に就任した。
戦火はまだ及んでいなかったものの、蝦夷地警備の兵力は新政府に従わない東北諸藩にゆだねられていた。
孤立状態の蝦夷地には物資欠乏のおそれがあり、前途は困難であった。

そして同年10月20日、榎本武揚率いる旧幕府軍が蝦夷地へ到着した。
清水谷は兵力を峠下へ派遣し、やがて戦端が開かれ、箱館戦争が勃発した。
箱館府の急造部隊は歴戦の旧幕府軍に敵すべくもなかった。
清水谷は側近達を連れて異国船に乗船して撤退し、青森市へ落ちた。
11月27日に青森軍総督に任命されたが、実際の軍事指揮は参謀の黒田清隆がとった。
明治2年(1869年)4月28日、蝦夷地江差に布陣。
旧幕府軍が5月18日に降伏すると、翌19日に箱館へ戻って政務に復帰し、戦後処理にあたった。

同年7月には開拓使次官に就任し、ひきつづき蝦夷地の統治にあたった。
9月に東久世通禧長官が赴任してくると次官を辞め、箱館戦争恩賞として250石を賜った。

後、学問に従事し、明治4年(1871年)からロシアへ留学。
明治8年(1875年)に帰国した。
明治15年(1882年)死去。
従三位授受。
享年38。

[English Translation]