源国房 (MINAMOTO no Kunifusa)

源 国房(みなもと の くにふさ、生没年未詳)は、平安時代中期の武将。
清和源氏の一家系 摂津源氏の生まれで源頼国の六男。
美濃源氏の祖。
母親は不明。
兄弟に源頼弘、源頼資、源頼実、源実国、源頼綱、源師光、六条斎院宣旨らがある。
一説には、五兄頼綱の養子となっていたともされる(『尊卑分脈』)。
源光国(師時)、源光俊、源光忠、源信雅室らの父。
正五位下、蔵人、検非違使、治部丞、伊豆国守、土佐国守、信濃国守。

都において受領層の中級貴族として活動する一方、父祖が国司を務めた美濃国における勢力の扶植に邁進した。
康平7年(1064年)、美濃において同族源義家の郎党を凌辱したことに端を発し、報復として国房の館まで攻め寄せた義家との間で合戦に発展した(『水左記』、『百錬抄』)。
承暦3年(1079年)には、多芸郡において同じく美濃国内に地盤を有する源重宗と大規模な合戦を演じたことから、後に両者とも朝廷に召され国房は私闘の罪により弓庭に拘じられた。

この間、信濃国守を務め、永長元年(1096年)正月の除目で伊豆国守に任官される。
なお、この除目における受領の任命には白河院の意向が大きく働いていたとされることから、国房が院に近い立場にあったとも推察されている。
これとほぼ同時期に美濃の東大寺領茜部荘の荘司を務めるが、荘内西境の地を隣接する私領鶉郷に加えたことから荘務を停止される。

康和元年(1099年)、従五位上に叙される。
嘉承元年(1106年)には、延暦寺の僧仁誉と共謀し尾張国大成荘に濫入している。
本拠地鶉郷は長子光国に継承された。

[English Translation]