源有光 (MINAMOTO no Arimitsu)

源有光(みなもと の ありみつ、長元10年1月12日 (旧暦)(1037年1月30日) - 応徳3年10月2日 (旧暦)(1086年11月10日))は、平安時代後期の武将。
大和源氏の流れを汲む源頼遠の次男。
陸奥石川氏2代目当主。
従五位下安芸守。

子は、大寺光祐、源光平、石川元光、矢吹光孚、奈目津光房(滑津)、石川光度、石川光助、吉田有祐。

夫人は若狭守平忠良の娘。
夫人が死去した後に神祇道・吉田兼親の娘と再婚し、晩年に進士・源義業の娘が室となる。

摂津国物津荘に生まれ、松千代、河内右馬之允師任、源太有光を称し、柳津に住してから柳津源太を称した。
永承6年(1051年)、父とともに源頼義に従い陸奥に下向して安倍氏 (奥州)と戦うが、康平5年(1062年)、厨川柵の戦いで父を失い兵の指揮を引き継いだ。
軍功を以て従五位下安芸守に任ぜられ、奥州仙道七郡(白河、石川、岩瀬、田村、安積、信夫)の中から、六十六郷の地を与えられた。
しかし実効支配できたのは、石川・白河のみに限られた。

当初、石川庄の泉郷(いずみごう)の南、川辺(かわべ)にあった保源城へ住する。

阿武隈川を挟み、西側が古代の東山道が通じ賑わっていた三条目(三城目)郷。
泉郷は東側にあり、賑わった土地であるこの地を本拠地と定めた。
しかし保源城は三方を急勾配に囲まれた山頂にあった。
守るに堅牢な城ではあったが、水・交通の便が悪く政務・居住には不向きであった。
その為、南に2キロ程の中野の地に藤田城を築くが、ここも何某か不便があり本拠とは成らなかった。

伝承によれば、「有光は八幡神に日夜祈りを奉げてより適した場所を探していると、蘆が三本生えるところに清水が湧き出している夢を見た。」とある。
「翌日、南へ向かい高台に登ると、石川郷の空に舞う鶴が、くわえていた松の小枝を落として去るのが見えた。」
「その場所を調べると夢に見たとおり蘆が三本生えていた。」
「試しに掘れば泉が湧き出すのであった。」
「ここに城を築き、三芦城と名付け移った。」

この築城伝説については、泉郷から三条目郷へと阿武隈川を渡った場所に小松館跡という遺構がある。
源頼遠・有光親子と一党がこの地を訪れた時、この地を治めていたのは小松氏であったと思われる。
三条目(三城目)には、三城目城址と鷹巣館の二つの城址があるが、タカナシ館跡は小松越前が築城したと伝えられている。
これを念頭に置けば、源有光の傘下に入った小松氏一族が「松の小枝」の例えで三蘆城築城に関わったと考えられるのではないだろうか。

泉郷周辺を、子の大寺光祐に授け、本拠地を三芦城へ移した。

その後は、姓も源氏から石川氏とした。
これは出身地摂津国に有する石川荘にちなんで地名を石川に改めたと云う説と、拝領した石川庄の地名を名乗ったとの説がある。
また、城の場所を示した稚松を嘴える鶴を家紋とした。

京都石清水八幡宮の分霊を城内に移して氏神とした。
これは、陸奥国平定の際に源頼義が勧請していた。
八男有祐を吉田兼親の義子として吉田左衛門尉と改め祭主とした。
これが現在の陸奥国一之宮石都々古和気神社である。

川辺の地には、場所を変え現在も川辺都々古和気神社が残っている。

[English Translation]