源雅実 (MINAMOTO no Masazane)

源 雅実(みなもと の まさざね 康平元年(1058年) - 大治2年2月15日 (旧暦)(1127年3月29日))は、平安時代後期の村上源氏の公卿。
源顕房の長男。
久我家の祖とされる。
源氏初の太政大臣まで出世したほか、舞楽や文学に長じた文化人としても名を残す。
「久我相国記」を記す。
久我太政大臣と号した。

治暦2年(1066年)に童殿上(貴族の子弟が殿上で見習いの奉仕をすること)を許される。
翌年の治暦3年10月に後冷泉天皇の御前で胡飲酒を舞い、御衣を賜ったことは後年長く語り伝えられた。
治暦4年に従五位下に叙され、侍従・近衛府・右近権中将などを経て、承保2年(1075年)に白河天皇の蔵人頭に補任される。
承暦元年(1077年)従三位に昇進し、さらに同年12月3日に参議に任ぜられる。
その後、権中納言・権大納言を経て、康和2年(1100年)内大臣に任ぜられる。
永久3年(1115年)右大臣になり、保安3年(1122年)に太政大臣に昇った。
これは源氏の太政大臣補任の初例である。
しかし天治元年(1124年)病になったため、同年7月7日出家して法名を蓮覚とした。
大治2年2月15日、69歳で薨去。
彼の薨去の際、同時代の人は「現世の昇進すでに万人を超え、入滅の時釈尊と同日なり、誠に是れ現当二世相叶ふ人か」(『中右記』)などと評していることからも、当時の雅実の名声の高さが伺える。
同年2月17日、遺体は久我(山城国愛宕郡久我)の山荘に移され、2月23日に久我の西辺に葬られた。

雅実は舞楽に優れ、秘曲『胡飲酒』を伝える楽家の多資忠が変死したとき、堀河天皇が『胡飲酒』を伝受していた雅実に命じて多忠方(資忠の子)に伝えさせた話は名高い。

略歴

治暦4年(1068年) 従五位下
治暦5年(1069年) 侍従
延久元年(1069年) 元服
延久4年(1072年) 右少将
延久5年(1073年) 従五位上 のち正五位下
延久6年(1074年) 従四位下 中宮権亮
延久6年(1074年) 従四位上 近江権守
延久6年(1074年) 正四位上 右中将
承保2年(1075年) 左中将、蔵人頭
承保4年(1077年) 従三位
承暦元年(1077年) 参議
承暦2年(1078年) 備前権守
承暦3年(1079年) 正三位 のち従二位
永保2年(1083年) 権中納言 侍従
応徳2年(1085年) 正二位
応徳3年(1086年) 権大納言
寛治2年(1088年) 侍従を辞す
寛治5年(1091年) 中宮大夫
寛治7年(1093年) 中宮大夫を辞す
寛治7年(1093年) 右大将
康和2年(1100年) 内大臣
康和5年(1102年) 左大将
嘉承元年(1106年) 皇太子傅
嘉承2年(1107年) 皇太子傅を辞す
永久 (元号)元年(1113年) 従一位
永久3年(1115年) 右大臣
元永2年(1119年) 左大将を辞す
保安 (元号)3年(1122年) 太政大臣
天治元年(1124年) 66歳で出家し、蓮覚の法名
大治2年(1127年) 69歳で死去。

[English Translation]