源順子 (MINAMOTO no Junshi)

源 順子(みなもと の じゅんし/みなもと の のぶこ、貞観 (日本)17年(875年) - 延長 (元号)3年4月4日 (旧暦)(925年5月4日))藤原忠平の室で、藤原実頼の母。
史料によって、「傾子」(『大鏡裏書』『一代要記』)や、「頎子」(『皇代暦』)の記載があるが、この2者については「順子」の草書体が誤ったものと考えられている。
順子が忠平の室になったのは、実頼が生まれる昌泰3年(900年)以前で、『古事談』に、忠平と順子の婚儀は、忠平が大弁参議のときに朱雀院西対で行われたとある。
延長2年(924年)には、順子五十の算賀が行われたが(『紀貫之集』)、同年末に重病に罹り、翌延長3年4月、51歳で卒した。

『公卿補任』や『本朝皇胤紹運録』は、宇多天皇の皇女としているが、順子と宇多天皇の年齢差が僅か9歳であることから、兄弟関係であったとしても、父子関係であったとは考え難い。
また、順子は「菅原の君」と呼ばれていたことから(『大和物語』)、光孝天皇の後宮(更衣 (女官)か)で菅原是善の女である菅原類子を順子の母と擬定し、のちに宇多天皇の養女になったとする見解がある。
類子を光孝天皇の後宮とする根拠は、当時無位であった類子が、光孝天皇践祚直後の元慶8年(884年)2月26日に従五位下に叙し、同日に光孝天皇女御であり宇多天皇の母である班子女王(父は桓武天皇皇子仲野親王)が従三位に叙しているからである(『日本三代実録』)。
また、この説を採った場合には類子の兄弟である菅原道真と宇多天皇・藤原忠平の三者間の深い関係を想定することが可能となる。

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